風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

引導を渡す

部下の一人(まだ3年目の若手)が、クレーム隠しをしていたことが発覚し、仕事では
大変面倒な事態になっている。彼は、以前から能力的に問題があった上に、クレーム隠し
はこれが初回ではなく既に三回目である。
さて、どうしたものか。


考えている僕の頭の中で「引導を渡す」という言葉があっさり浮かび上がったのに驚く。
念のために解説するが「引導を渡す」というのは「もう会社を辞めて貰いたい」という
内容を「辞めたほうが君自身の人生にとっても良い」とか「君の能力では会社業務を
こなすには困難がある」といった理論武装と共に伝える、ということである。
つまりは「退職勧奨」というヤツである。
実は、これまでも僕は部下に「引導を渡した」ことはある。
それでも、それが正しい事柄か、そんな要求をする権利を果たして僕は持っているのか、
散々長い間悩んだ後で、清水の舞台から飛び降りる覚悟で行った。
良く覚えているが決断する前の数日間、夜もろくに眠れなかった。
それがどうだろう。
今の僕はいともあっさりと「彼には引導を渡すしかないか」と考えるようになっている。


僕は「君は辞めたほうが君自身の将来の為に良い」と言われる人の辛く悲しい気持ちを、
想像できなくなってきているのだろうか?そしてそのうち、もっと多くの人達を何も
感じずに「リストラ」したりできるようになるのではないだろうか?
さらに言えば、もしも政治家になったとしたら「目的」のために、眉一つ動かさずに
人を虐殺したり、抹殺したり、できるようになるのではないか?
そう考え至って、僕は慄然とした。
僕の感覚は、知らず知らずマネジメント側の論理に洗脳されて、麻痺してきているの
ではないか。


今日読んだ雑誌で建機会社の社長が「雇用を守ることに拘るのは良いことではない」と
言い切っていた。会社が倒産するようでは社員全員が路頭に迷い、株主や社会にも迷惑
が掛かるから、そのレベルまで立ち至る前にやむなくリストラするというのは判る。
しかし、まだ会社が利益も出していて、倒産の恐れもない状態では、社員に「引導を
渡す」のは利益を極大化したいマネジメント側の身勝手であり、神をも恐れぬ所行
ではないのか?


「職業としての政治」でマックス・ヴェーバーが言っていた

結果に対するこの責任を痛切に感じ、責任倫理に従って行動する、
成熟した人間―老若を問わない―がある地点まで来て、
私としてはこうするよりほかない。私はここに踏み止まる
〔ルッターの言葉〕と言うなら、測り知れない感動をうける。
これは人間的に純粋で魂をゆり動かす情景である。なぜなら、
精神的に死んでいないかぎり、われわれ誰しも、いつかはこう
いう状態に立ちいたることがありうるからである。
そのかぎりにおいて心情倫理と責任倫理は絶対的な対立ではなく、
むしろ両々相俟って「政治への天職」をもちうる真の人間をつくり
出すのである。

という踏みとどまるべき「ここ」は僕にとって「どこ」なのか。
僕は、もう一度、考え直す時に来ているようだ。