風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

ブラームスのバラード「エドワード」(2)

前回の記事の続きである。
さて、前回日本語訳した詩「エドワード」にインスパイアされて作曲されたブラームス
ピアノ曲バラードOp.10-1であるが、ウィーン原典版の楽譜の序文にも書かれているし、
Jasonさんも指摘している通り、ドイツ語の詩句の最初の数行は楽譜と見事に合致して
いる。以下はこの曲の始まりの部分の楽譜にドイツ語の詩文を当てはめてみたものである。


赤い部分は詩における母親の問いであり、青い部分はエドワードの答えと考えて良いで
あろう。特にEdward, Edwardという母親の問いかけの部分には空虚5度が使われており、
なんともいえない不安な雰囲気を作り上げている。中間部の前、第26小節までのニ短調
の部分(以下のYou Tubeの演奏〜2:12)は、母親の不安な問いとそれに答えるエドワード
の応答になっている。
母親の沈んだ不安げな問いに対して、エドワードの答えはシンプルな和声で表現されて
いる。これはブラームスが過去の神話的雰囲気を出すためにこうしたものと思うが、
ストレートに弾くとケルト神話的神聖さのみが強調されてしまいエドワードの複雑な
気持ち(深い悲しみ、疲れ、底流する優しさ)を表現できない。表現に一工夫が必要な
部分だろうと思う。もちろん母親の問いの部分とエドワードの答えの部分をはっきり
タッチや音色で区別して弾きわけるべきことは言うまでもない。


第27小節からの中間部(ニ長調の部分)前半(You Tube 2:13〜2:53)は母親が「本当の
ことを言いなさい」「他に悲しいことがあるのでしょう」とエドワードに詰め寄る箇所と
考えられる。何も考えなければ「なんとなくもの悲しい前半と明るい中間部」といった
感じで、脳天気に明るく盛り上げて弾ける部分であるが、表現としては母親の持っている
切迫感、詰め寄る様子を表現したいところだ。
そしてクライマックス、第44小節からの部分(You Tube 2:54〜)はエドワードが「私は
父を殺しました」と告白する部分である。
詩文を知らなければここは美しい和声の神話的なクライマックスとして弾きたくなるが、
この部分はエドワードの投げやりで、どうしようもない捨て鉢な荒々しい気持ちの表現
を考える必要があると思う。


そして曲は最後にまたニ短調に回帰する(You Tube 3:47〜)。
この部分の右手は、最初と同じ母親の問いを表しているのだがここでの問いは、母親が
一番聞きたかった詩文に書かれた最後の問いであることは明白だ。
つまり「この私に何を残しておくれだい?」という質問なのだが、左手のスタッカートは
あたかも母親の不安な心臓の鼓動を表しているかのようである。
そしてエドワードは最後の最後に左手低音部で「地獄の呪いに耐えなさい」とぼそりと
呟くのだ。(68小節後半 You Tube 4:22〜)
この部分の表現は実に難しく微妙なものになる。


さて、最後にこの点に触れておかなければならない。
19世紀の音楽界においては「絶対音楽」と「表題音楽」の論争があった。
ブラームスは評論家ハンスリックなどと並んで「絶対音楽派(音楽に表題や文学的な解説
は不要で音楽は音楽だけで成立する芸術であることを強調する一派)」と目されていた。
もしそうであるならば、僕の書いたような原詩を音楽に当てはめるような、原詩の内容
を曲の内容にかぶせて考えるような演奏解釈は不当であり、具合が悪いのではないか?
この点については、僕自身、いや、そんなことはない、と言い切れる自信はない。
しかしながら、である。
作曲者自身の手で楽譜に「スコットランドのバラード『エドワード』による」と書かれて
いる事実、この曲はブラームスのごく初期のピアノ曲でありハンスリック・ワーグナー
論争が起こる前に作曲されたものであること、そしてブラームス自身はこの論争に積極的
にかかわったわけではなく、むしろ、ハンスリックとワーグナーによって巻き込まれたと
考えるべき、という点は指摘しておきたい。

ブラームスOp10-1 バラード「エドワード」
演奏:ベネデッティ・ミケランジェリ