風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

ブラームスのピアノ

ハンブルグ最後の一日、空き時間でブラームス記念館を訪れることができた。
ガイドブックには金曜日は定休日と書いてあったので、中に入れなくてもせめて
外からだけでも見たい、という思いで訪れたところ、なんと開いていた。
閉館は午後5時で僕が入ったのは4時半だからわずか30分間だけど、ハンブルグ
いちばん行きたかった所に行くことができ、なおかつ中にも入れたのだ。
なんと僕はラッキーなんだろう。


中にはブラームスクララ・シューマンの写真、直筆譜(ファクシミリ)などが
並んでいる。僕の偏愛する「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ」の直筆譜もある。
ひとつひとつに感動しながらじっくり見ていると、ボランティアの女性が声を
かけてきた。たぶん僕があまりにも熱心に見入っていたからだろう。
あなたは音楽家なのか?と聞くので、音楽家ではないが趣味でピアノを弾くのだ
と言うと、二階にブラームスが使っていたピアノがある、よかったら弾いてもら
っても良い、と言う。
ブラームスのピアノを弾かして貰えるなんて、嘘だろう?と高鳴る胸を押さえて
二階に上がってみると古い古いスクエア・ピアノがあった。
鍵盤を押してみるとおもちゃのピアノのような音がする。
シューマンの主題による変奏曲Op.9やバラードOp.10の古い楽譜も置かれている。


そっと椅子を引き寄せてバラードOp.10-1「エドワード」の冒頭を弾かせてもらう。
残念なことにすっかり調律が狂っている上に反応しない鍵もある。
まったく調整されていない様子だったのは残念だったけれど、それでも、僕はブラ
ームスが弾いたピアノをこの手で弾いているのだ!
この思いはどうにも説明できないようなもので、胸が締めつけられるようだった。
調律の狂ったピアノの音を通して、僕の魂がブラームスの魂と直接向きあって会話
をする。弾いている間中、僕の心は瘧をを患ったひとのように震え続けた。


クララ・シューマンの年老いてからの写真も感銘深かった。
実に美しい人だったのだな、と改めて思う。
そういえば、若き日のブラームスも実に美しい青年だった。
写真の中で彼らはもう歳をとらない。
美しいままで、永遠に僕たちを見つめつづけている。


記念館を出た僕の頭の中では、ブラームスのバラードとヘンデル変奏曲が鳴り続けて
いる。僕は「エドワード」バラードを小さく口ずさみながら、アルスター湖のほうへ
ゆっくり歩いた。
日本に帰ったらこの曲をきっと弾こう、と考えながら。