風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

三島由紀夫「暁の寺」

三島由紀夫豊饒の海」シリーズ第三巻「暁の寺」読了。
うーん、という感じである。
正直言うとタイとインドの精緻な風景描写以上の何かが残ったか、というと否である。
唯識思想について入れ込んだ説明がなされたり、インドで起きた本多の心の
大きな転換などが描かれているのだけれど、読んでいてそれが「自分の心のこと」
のようには得心できないのである。
だからそれ以降のすべてのプロットや展開が今ひとつ心に沁みてこない。
これは僕の読解力の問題なのかもしれないが、三島が抱えていた世界観と問題意識
が読んでいる人とシンクロしない限り、ぴたっとは来ないのかもしれない。

三島の「豊饒の海」シリーズをここまで三作を読んで、この人の小説は何かを
想起させると感じ、それを思いだそうとしていたのだが、やっと思い当たった。
ヘルベルト・フォン・カラヤンが指揮したクラシック音楽がそれだ。
カラヤンの音楽は技術的、技巧的には完璧で、誰が聴いても(もちろん僕が
聴いても)美しく壮大で惚れ惚れするような演奏なのだが、どうもその中心にある
のが「空虚」であるように感じられてならないのだ。
壮大にして技巧的で華麗な空虚。
この表現は「暁の寺」にも当てはまるのではないか。

しかしである。
そんな風に感じたりしつつも、三島の筆力には毎回圧倒されるばかりである。
次の引用部分は本多が「覗き」という悪癖に向かう瞬間の心理描写であるが、
もはや悪魔的、と言うしか言葉がない。

【引用始まり】 ---
こういう動悸には馴染がある。夜の公園に身をひそめている折、目の前に
待ちかまえていたものがいいよはじまるという時に、赤い蟻が一せいに
心臓にたかって、同じ動悸を惹き起す。
 それは一種の雪崩だ。この暗い蜜の雪崩が、世界を目のくらむような
甘さで押し包み、理知の柱をへし折り、あらゆる感情を機械的な早い鼓動
だけで刻んでしまう。何もかも融けてしまう。これに抗おうとしても無駄な
ことだ。
 それはどこから襲って来るのだろう。どこかに官能の深い棲家があって、
それが遠くから指令を及ぼすと、どんな貧しい触角も敏感にそよぎ、何も
かも打ち捨てて、走り出さなければならない。快楽の呼ぶ声と死の呼ぶ声は
何と似ていることか。ひとたび呼ばれれば、どんな目前の仕事も重要で
なくなり、つけかけの航海日誌や、食べかけの食事や、片方だけ磨いた靴
や、鏡の前に今置いたばかりの櫛や、繋ぎかけたロープもそのままに、
全乗組員が消え去ったあとをとどめている幽霊船のように、すべてをやり
かけのまま見捨てて出て行かねばならない。
 動悸はこのことの起る予兆なのだ。そこからはじまることはみっとも
なさと醜悪だけと知れているのに、この動悸には必ず虹のような豊饒さ
が含まれ、崇高と見分けのつかないものがひらめいた。
【引用終わり】 ---

やっぱり、凄い。
凄すぎますよ、この人の筆力は。

暁の寺―豊饒の海・第三巻 (新潮文庫)

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