風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

三島由紀夫「春の雪」

「春の雪」読了。
大変に読み応えのある小説だった。

絢爛豪華で美しい文体で描き出されるのは、主人公を含む貴族階級の生の虚ろさ
である。主人公の清顕と聡子の愛もフランス貴族や平安貴族の恋愛を彷彿と
させるような「生きるための現実から遠い恋愛」なのだ。どんなに美しい情景、
美しい場面が描かれても、どこかぽっかりと空虚で底知れぬ虚しさが底流している。
この作品から続く「豊饒の海」四部作を読んだわけではないので、こう言い切るの
は無謀かもしれないが、この小説の中心にあるのは「空虚」である。
ちょうど日本の天皇制の中心が空虚であるのと同じように。
しかし、その空虚の周りを埋め尽くす情景のなんと煌びやかで空しく、冷たくも
美しいことか。

僕にとって登場人物の中で誰より印象的かつ興味深かったのは、聡子の父、
綾倉伯爵である。この人は、本当に公家そのものの性格に描かれている。つまり、
何事も人任せで決断ができず、無為に時が経つのを「じっと待つことができる」
人物だ。雅さと典雅さの裏にある公家ならではの処世術のしたたかさを感じる。
これを三島は冷静に、しかし心中の冷ややかな軽蔑を込めて描いている。
この人物の描写に限らず三島は登場人物のどれにも過剰な肩入れはしていない。
三島の視点は常に小説の外部にあり、冷静に緻密に精密に小説を計算ずくで組み
立てている。そう、どの部分を取っても筆が滑ったり、走りすぎたりした部分は
見られない。ベネデッティ・ミケランジェリのピアノ演奏のように三島のアプロ
ーチもまた、この小説で描かれた世界そのままに徹底的に貴族的なのである。

とはいうものの、小説の主人公の松枝清顕と本多繁邦は両方とも実物の三島の一部
の化身であるかのようにも思える。実物の三島由紀夫も清顕のような夢見がちで
弱々しい部分も持ちながらも、本多のように現実的で優秀で論理的な部分も持ち
合わせていたのだろう。結果的に弱々しく貴族的で感情的な清顕は美しい禁断の恋
の果てに死ぬことになり、本多は生き続ける。
その意味は恐らくこれから続く三つの物語を読めば解き明かされるのだろう。
三島が四部作に仕込んだという「輪廻転生」はこれからどのように展開されるの
だろうか。

それにしても何と美しい日本語だろう。
そして、何と緻密で深い心理描写だろう。
プロ中のプロの小説家の文章がいかに素人と隔絶した凄いものかと嘆息してしまう。
続く三つの作品を少しずつ読み進めるのが楽しみである。

春の雪―豊饒の海・第一巻 (新潮文庫)

春の雪―豊饒の海・第一巻 (新潮文庫)