風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

三島由紀夫「奔馬」

三島由紀夫の「豊饒の海」第二部「奔馬」読了。
相変わらずの絢爛豪華な文体と緻密かつ精密な描写である。
この小説では主人公・勲の裁判においての本多の思いが非常に興味深かった。

【引用始まり】 ---
もし勲が計画通りに決行し、自刃していたとしたら、彼の一生は、誰一人、
「他人」に出会わずに終る生涯になったであろう。彼が殺す「大物」たちは、
決して彼の対立する他人としてではなく、ただ若者の純一な志によって醜く
瓦解する土偶として存在するにすぎなかったであろう。
(中略)
供述書のなかでも、勲は「決してにくくて殺すのではない」と言っていた。
それは純粋な観念の犯罪だった。しかし勲が憎しみを知らなかったという
ことは、とりもなおさず、彼が誰をも愛したことがないということを意味
していた。
 今こそ、勲は憎しみを知っただろう。それこそは彼の純粋世界にはじめて
あらわれた異物の影だった。どんな切れ味のよい刃も、どんな駿足も、
どんな機敏な行動もついに統括しえず制御しえないところの、したたかな
外界の異物だった。
すなわち彼は、彼がその中に住んでいた金甌無欠の球体に、「外部」の
存在することを学んだのだ!
【引用終わり】 ---

第一部の主人公・清顕と第二部の主人公・勲は、感情に直情的に従う美しさに
おいて共通しているものの、勲は「愛」を知らない。
本多が思う通り、憎しみを知らぬ者は愛は知り得ない。
愛も、憎しみも、外部(他者)との深い関わりの中でしか生まれないものであるが、
そういう回路で外部と関わった瞬間に観念のみに生きてきた己の中には「汚れ」が
持ち込まれることになり「純粋さ」は失われる。
(だから「純粋な愛」などという観念は矛盾である)
槙子の偽証という形で勲は「愛」に直面し、所謂「大人の返答」を迫られることに
なる。己の純粋さを捨てざるをえない局面で彼はそれをやり遂げ、本多はそれに
心の中で喝采するのだが、勲本人はもちろんそれを良しとはしていない。
最後は、清顕同様に勲は自らの純粋さに殉じて小説が終わる。

この小説、本当に面白い。
出てくる「大人達」は歳を重ねるごとに、ますます世智にのみ富んだ醜い大人に
なってゆくようだ。小説ごとに登場する清顕の輪廻転生した姿はその老いてゆく
大人の醜さを残酷なまでに浮き上がらせるための存在なのだろうか?

この巻に出てくる槙子という女性。
その誇り高さとしたたかさと激しさと老獪さに惹かれる。
僕は五味川順平「戦争と人間」に出てくる伍代由起子を思い出していた。
この後も出てくるのだろうか。
次の「暁の寺」も楽しみである。

奔馬―豊饒の海・第二巻 (新潮文庫)

奔馬―豊饒の海・第二巻 (新潮文庫)