風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

メールの作法

僕がPCでメールを使うようになったのは1996年頃だからもう10年以上前だ。
この10年間で書いたメールは何百通に及ぶだろうけれど、最近、メールの作法で
意識的に変えたことがある。
それについて書いてみたい。

メールを始めたころは「引用符」を多用していた。
相手のメールの文章の一部を">>"や">"マークなどでそのまま引用し、それに
対して自分の意見、コメントを書く、というスタイル。必然的にこちらが書く
メールは、相手のメール文をぶつ切りにした引用部分それぞれに、丁寧に一つ
一つこちらの意見や、思うところを書くスタイルになる。
このスタイルは米国のメールのスタイルだったのではないだろうか?
何も考えず僕はそのやり方をそのまま採用していた。周囲の誰もがそうしていたし、
掲示板などでもこの作法は使われており、何の違和感も感じなかったからだ。

参考までに96年頃に書かれた「メールの基本」と題された文章の一部を引用する。
【引用始まり】 ---
相手の手紙の返事や、ホームページの内容に訂正をいれる時には、その文章
を引用します。その時には、どこが引用部分かをわかるように、「>>」「>」
などの記号(引用符)を文章の先頭にいれます。
この引用符をつける作業は、メールソフトによっては、返信を選ぶと自動的
に行ってくれます。
【引用終わり】 ---

インターネットメールは元々、科学技術畑の人たちがお互いの意見交換や情報交換
の手段に端を発したものであるらしい。そういう目的にはこの引用符を使うやり方
は理にかなっている。学術系の意見交換や議論(場合によっては論争)は、相手の
質問に対して全てこちらが何らかの答を返すことがルールになっている。
一部の問いを無視してスルーしたり、答えたい質問に対してのみ回答することは
論理的な議論・意見交換に関する限り「ルール違反」なのだ。
つまり「相手の問い全てにフェアに逐一回答すること」がルールだ。
メールソフトが自動的に引用符をつけてくれたりするのは、元々はフェアに論理的
に議論・論争を行うための作法に則ったものと考えて良い。

けれども。
出自がそうであったとしても、現在僕が出しているメールのほとんどは普通の
コミュニケーションに使われている。では、メールが世に出る前、僕たちは書き
言葉によるコミュニケーションに何を使っていたか?
「手紙」である。
「手紙」では普通、相手の文章の引用などしないし、相手の問いに逐一回答など
しないものだ。僕はそれに気づいた瞬間から、必要のないときはメールにおいて
相手の文章の引用と逐一のコメントを極力避けることにした。

僕にとっては「手紙」は論理的な意見交換の手段ではない。
論理によって切り分けられない「感情」であったり「曖昧な思い」を交換するため
にも使う。だからそこにはもちろん「論理的議論のルール」は適用されないし、
するべきでもない。それを「論理的に語り得ぬもの」を無理に言葉で切り分けよう
とするとどうなるだろう?。「言葉で切り分けられたもの」の内容は「ここにある
もの」からどんどん遠ざかって「違うもの」になってゆく。
我々が「現実」と呼んでいるものは、もちろん「無数の誤解の集積」であるわけ
だが、言葉で切り分けられないものを無理に切り分けようとすると、さらにその場
から大きく遠ざかることになるのだ。

どうしてこんな簡単なことに気づかなかったのか、と思う。
もっと早く気づいていれば、と改めて後悔している。