風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

国宝阿修羅展

東京国立博物館で開催中の「国宝阿修羅展」に行ってきた。
人気であると聞いていたので開館直後の朝9時半過ぎに行ったところ、既に70分待ち。
その前にチケットを買うだけで15分待ったので、結局1時間半ほど並んでやっと入る
ことが出来た。
いやはや、想像以上の人気である。
今回のこの展覧会では阿修羅立像だけではなく、奈良・興福寺が所蔵するいろいろな
仏像・仏具や、国立博物館所蔵の興福寺に関係する数多くの文化財が展示されており、
展示物75点の内訳は国宝が58点、重要文化財10点なので大変な展示会である。


僕は奈良・興福寺には昨年11月の正倉院展に行った時に立ち寄っている。
ちなみにこの時、興福寺の国宝館はずいぶん空いていて、カラスケース越しではある
ものの、じっくりゆっくり阿修羅像を見ることができたのだった。
今回、阿修羅像を360度の角度からケースなしで見ることが出来るのは楽しみである。


さて、博物館の中に入ったものの大変な人混みだ。
僕は正倉院展を「人気のあるデパートのバーゲン会場」と評したが、今回の阿修羅展は
それを上回る。ともかく低い位置の展示物は二重、三重の人垣越しになるので後ろから
ではまず見えない。最前列の人はだいたいじっくり見たがって動かないわけなので、
最前列で見るならば相当時間辛抱強く待たない限り見ることはできない。
やむを得ないことなのだろうが、大変な体力と時間の消耗である。


めげずに辛抱強く見ることにする。
今回は仏像の展示が非常にうまくなされていたので、順に見てゆくと阿修羅像のあの
何とも言えない繊細で複雑な表情は阿修羅像固有のものではなく、同じ時期に制作
されたいろいろな立像(八部衆および釈迦十大弟子)の表情も同じニュアンスを含む
ことがわかる。これら仏像の慈悲とも哀しみとも忍耐ともいかようにも取れる非常に
複雑な表情を見ているうち、この表情は能面ととても似ている、と思った。
僕は能に詳しいわけではないけれど(是非一度見に行きたいと思ってはいるのだが)、
本で見る能面はこのような非常に複雑かつ曖昧な表情をしている。
能が観阿弥世阿弥によって確立されたのは鎌倉時代の奈良であるわけだが、能面
とこれら仏像の表情とは実際になんらかの繋がりがあるのだろうか?
一方で、興福寺の仏像でも鎌倉期に作られたもの(今回出品はされていないが、
有名な仁王像などもそうである)は、天平期のこのような複雑で繊細な表情を失って
いるように見えるのは面白い。


さて、阿修羅立像である。
興福寺と違って広い空間にケースなしで安置された阿修羅像は、やはりひときわ
素晴らしい立像である。ゆっくりと周囲を回りながら眺めるといろいろなことに
気づく。まず、三つの顔の表情の違い。正面から見て左側の顔は厳しく下唇を
噛みしめているように見える。右側の顔はむしろ何かに耐えているかのよう。
そして正面の顔が一番複雑で、憂愁や内面の決意や慈悲深さを感じさせる表情を
している。
よく見ると、この像は決してリアリスティックに造られているわけではない。
腕は細くて長すぎるし、体のバランスだって正しくないし、顔の造作の細部も大胆
に省略もされている。それでいてこの像は誰が見ても慈悲深く意志と憂愁を合わせ
持つ美しい少年であることが伝わってくる。
ヨーロッパ彫刻にある筋肉の流れや解剖学的根拠に基づいた写実性の有無と「人が
リアルに人と感じるか」は別物であることをこの像は示しているのではないか。
とにかく第一級の芸術品である。


もっとゆっくり見続けたかったけれど、後ろから押されてもう一周見ることは
できなかったのが残念。ちなみにミュージアムショップの混み方も殺人的で
結局何も買えずに終わった。
今年の秋、興福寺に阿修羅像が戻った時に仮金堂内に阿修羅像、八部衆、釈迦十大
弟子像を安置して特別公開するとのアナウンスがある。
機会が有ればぜひこちらも行ってみたいものである。


国宝阿修羅展