風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

己の義

先週大河ドラマの「天地人」を見ていて上杉謙信が樋口(直江)兼継に言った言葉
がとても印象的だった。義を貫くためには人を殺めなくてはならぬこともある、
という矛盾に迷う兼継に、謙信は(概略)こんな言葉を贈ったのだ。

【引用始まり】 ---
お前を見ていると自分の若い頃を思い出す。
自分の二人の息子たちは自分(謙信)を信じることが全てで迷いがない。
しかしお前は迷う事ばかりだ。
だからこそ『己の義』を見つけることができる。
自分も長い戦いの中で、迷いの上で『己の義』を手にした。
お前もいずれ『己の義』を見いだすだろう。
お前こそ、自分の意志を真に受け継ぐものであろう
【引用終わり】 ---

何よりまず僕が打たれたのは「己の義」という観念である。
「己の義」があるということは「他人の義」もある、つまり「義は複数ある」
ということだ。ここには「義」とは絶対的なものではない、という観念が包含
されている。
そう、その通り。
この世には「絶対の正義」などないし「普遍的な義」もない。
「複数の義」が林立しているのがこの世界である。
意外と理解されていないこの事実がしっかり押さえられている点に僕は感服した。

僕は「真実」という言葉も「絶対に」という言葉も好きではない。
それは「嘘」だから。
この世に公理系のようなものは存在しない。
「人を殺してはいけない」という一見絶対に見える言葉でさえ、ある場面を取れば
正当化されることもある。この世界にあるものは、林立する「複数の義」とその間
の構造と関係の網の目なのである。
そして「いくつかの義」がconflictを起こした場合、その瞬間の社会的な状況に
おいて「妥当性を協議し、比較計量する」ことはできる。
しかし、それはその瞬間において、あるシチュエーションにおいてのみのことだ。

縋れる公理系のない寂しさと哀しさ。
この空っぽを受け止めつつ、彷徨い歩くことが、生きることに他ならない。
孤独で、辛く、哀しい道行きである。
謙信が言う通り、この孤独を耐えて受け止めたものは「己の義」を手に出来るかも
しれない。しかし、それとてもちろん、あるシチュエーションにおいて、ある関係性
において、ある時代においてのみ成立する、言ってみれば個人の趣味の色を帯びた
「その人の義」なのである。

「己の義」を確立することは強くなることではあるが、小さくなることでもある。
「小さな義」であるほど、それは無矛盾に、ロジカルに、そしてクリアカットに
作り込むことが可能だ。
しかし一方で「小さな義」は、痩せていて、生の豊饒さから遠い。
これについてはニーチェの言葉を引用するまでもないだろう。
信じられそうなシンプルな公理系に簡単に飛びつくことは、容易いことであるし
簡単に強くなれる道であろう。そう、ちょうど謙信の息子たちのように。
しかしゲーデルが証明した通り、無矛盾の公理系など数学の世界にすら存在しないのだ。
ましてこの現実の世にそんなものが存在するはずもない。

「己の義」を確立した上で、「迷いの道」への扉を常に開いたままでいること。
「己の義」を過信せず、常に「複数の義」の間でその妥当性をそれぞれの局面で
比較・計量・判断すること。
僕はその道を選ぼうと考え、今、その思いを持って歩いている。
長く、困難で、孤独な道行きである。