風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

停電の夜に

率直に言うと僕は短編小説というジャンルに苦手意識がある。
書き残された余白の中から何かを感じとったり、読後に残るほろ苦さの余韻を
味わったりするよりも、複雑に絡み合った重層的な文脈から得体の知れない巨大
な何かが立ち上がってくるような長編小説のほうが、自分の好みではある。
ジュンパ・ラヒリの「停電の夜に」は久しぶりに読む外国の短編小説だ。

この短編小説集を読んで、作品のいくつかは同じものを描き出しているのだな、と
感じた。それは「相手の関心(愛)が失われることで訪れる結末のむごさ」である。
最初の本の表題にもなっている「停電の夜に」では、関係が壊れかけている夫婦
が毎晩1時間の停電を機にロウソクの光のもとで話し合うことで夫婦の絆を取り
戻しそうに思えるのだが、最後の夜に苦い結末を迎える。
愛が失われた時、人は限りなく残酷になれる、という証拠がここに提示される。

似たような『愛を受けられない残酷さ、本当の関心を向けられない残酷さ』は
「病気の通訳」でも「本物の門番」でも「セクシー」でもヴァリエーションと
して提示される。風に飛んだカパーシーの住所を書き留めた紙、結局もらえな
かったプーリー・マの毛布、デヴが忘れていた「きみはセクシーだ」の一言、
これら相手の気まぐれな好意に縋りついた者達にとっては心の拠り所だった。
ラヒリは、これらがいとも簡単に失われ、残酷に忘却される様を鮮烈に描き出す。
忘却される側の痛み、忘却する側の残酷さ、そういったものが読み手の心には
苦い味わいとなって残る。

しかし、ラヒリの筆がこのテーマの描写のみに集中していたら、これほど評判の
高い作品にはなっていなかっただろう。短い小説の中に、現代アメリカの生活や、
インド系移民たちの宗教、政治、そして食を含めた生活とその土地の見事な
描写が自然になされている。実に素晴らしい描写力だと思う。(事実、僕は
この本を読んでインド料理レストランに行きたくなったほどである ^^;)

最後に置かれた「三度目で最後の大陸」は「停電の夜に」に勝るとも劣らない、
全く別の意味で強く印象に残った作品だった。
ここでは上に挙げたテーマとは違って、ラヒリの筆はインドから移民として
やってきたひとりの男がアメリカ社会で職を得て社会に溶け込み、妻を呼び
寄せて根を張ってゆく様子を真正面から描いている。
これは、移民達へという以上に、生まれ育った土地を出て未来を自分の手で
切り開いてゆく若者達への賛歌・応援歌のように僕は感じた。

生きることは、他者の無関心に耐えることでもあるし、その痛みや苦さから解放
されることはいくつになってもないけれども、痛みの中でも歩き続けることその
ことが大変な偉業なのですよ、と著者は語っているように思う。

停電の夜に (新潮文庫)

停電の夜に (新潮文庫)