風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

中村紘子ピアノリサイタル

中村紘子のピアノリサイタルがあるということで江戸川区総合文化センターへ
行ってきた。実は僕は中村紘子の演奏は音源は持っているがあまり好きではなく、
リサイタルも昔一度行って失望した記憶がある。
それでも行ってみよう、と思ったのは僕が偏愛するブラームスの「ヘンデルの主題
による変奏曲とフーガ」がプログラムに載っていたからだ。僕の「大好きな曲」を
僕が「苦手な演奏家」がどのように演奏するのか、ある意味怖い物見たさでカンカン
照りの真夏日にも関わらず出かけてみた。

会場で当日券を買い、席についてプログラムを開いてびっくりした。
プログラムがアナウンスと変わっている。
それも演奏予定の4曲のうち3曲も変わっており「ヘンデル変奏曲」が無い!!
「演奏者の希望」とのことだが、これはちょっとひどいのではないか。
絵の展覧会で「ブリューゲルダ・ヴィンチフェルメールが来る!」と前売り
券を売っておいて、会場に入ったら「都合でコローとセザンヌゴッホを展示
しました」と書いた紙が貼ってあったら、普通怒らないだろうか?
そういう訳で僕は演奏が始まる前から非常に失望し、かつ不機嫌であった。
そこの部分は差し引いて、以下の感想は読んでもらった方がいいかもしれない。

1)ハイドン:ピアノ・ソナタ第53番 ホ短調 Hob.XVI-34
この曲は僕自身、以前さんざん弾いた曲なので興味を持って聴いたのだが、率直
に言うと非常に違和感のある演奏だった。まずペダルが過多でそれによって輪郭が
ぼやけてしまっている。また恣意的なルバート、短いパウゼなども多用されたの
だが、それがますますこの端正な曲の輪郭を不鮮明にしていた。
僕の考えでは、ハイドンは小手先でいじればいじるほど『清潔さを失い、面白く
なくなる』。ハイドンに限らず古典派の曲は、基本的に楽譜に書いている通り
きちんと演奏すれば、それで十分面白く聴けるように作られているのだが。
もう一つ気になったのは左手と右手の音量のバランス。
何かどこかがズレているように感じられた。

2)シューマンクライスレリアーナ
一見、ロマン派が得意な中村紘子向きな曲、と思われる向きもあるだろうが、僕が
思うにこの曲は飛び抜けた天才か、猛烈に知的なピアニストでないと手に負えない
と思う。この曲はある小説に登場するクライスラーという人物の描写となっている
が、実際はクララとの恋愛に翻弄されていた若き日のシューマンの激情と沈静の間
で激しく揺れ動くロマンチックな内面を描写したという二重構造になっている。
では、この曲の演奏において何がそれほど難しいのか?
このような二重構造であるが故に、ピアニストは曲の内容を明快にイメージする
のが難しいのだ。どんな芸術でもそうだが表現する際に表現者がある程度以上の
伝えたい明確なイメージを持っていない限り、人口に膾炙する芸術たり得ない。

例えば、マルタ・アルゲリッチや、ウラディミール・ホロヴィッツといった桁外れ
の天才は、直感的に鳥瞰的にイメージを掴んで、超絶的なテクニックでそれを表現
する。しかし、それが凡人には難しいとなると他にどういうアプローチがあるか。
例えばアルフレート・ブレンデルのように強靱な知性でこの曲を精緻に分析し、
全体のバランスを見ながら個々の曲へのアプローチを精密に決めてゆく方法がある。
このアプローチは下手をすると「講義を聴かされているみたいな演奏」と酷評
される可能性はあるものの、聴衆に面白く聴かせる可能性を残している。
ともかく、上に書いたようなアプローチを取らない限り、この難曲をただ漫然と
弾いただけでは「精神分裂病患者の繰り言のようなもの」を延々と聴かされる
ことになり、聴衆は退屈してしまうのだ。

さて、前置き講釈が大変長くなってしまった。
今日のこの演奏、僕は退屈で眠りそうになった。
以上。

3)ムソルグスキー組曲展覧会の絵」全曲
これは今日の演奏会で一番良かった。
変わっていない唯一の演奏曲目で、まぁこれがメイン、ということなのだろう。
この曲集では、ひとつずつ、はっきりしたイメージが感じられた。
中村の良さである、音色の多さ、強弱のダイナミックレンジの広さなどが生きて
なかなかの好演だったのではないかと思う。特にピアノを鳴らす能力はたいした
もので、日本の女流でもこれだけ雄大に鳴らせるひとは多くないだろう。
(「キエフの大門」はすごい迫力だった)
ただ、ハイドンでも触れたような過剰なルバートも散見され、どうも逆効果に
なっていた部分もあったように思う。どの曲も聴いていて思ったのだが、この人
はどうもルバートを気分で決めているような気がして仕方がない。
言い換えれば、曲に対するアプローチに知性が感じられないのだ。
本を書いたり、文化賞を貰ったり若い頃から才女として鳴らした人なのだから、
曲の分析や演奏にもその知性をもっと使って欲しいと思う次第。

最後にアンコールを5曲。
ショパンのワルツを2曲「告別」と「子犬」、グラナドス「アンダルーサ」、
ショパンの「幻想即興曲」、ブラームスの「ハンガリー舞曲1番」。
これがどれも大変良かった。
この人は、やはりショパンの小品やサロン風の曲が向いているのかもしれない。
こんど鎌倉芸術館ショパンのワルツ全曲を弾くらしいが、ショパン好きならば
聴く価値があるかもしれないと思う。