風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

高貴な死か、卑屈な生か

サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」の中でアントリーニ先生がホールデン
に『未成熟な人間の特徴は、ことにあたって高貴な死を選ぼうとする点にある。
これに反して成熟した人間の特徴は、ことにあたって卑屈な生を選ぼうとする
点にある』と言うシーンがある。僕が思うに、何不自由なく育てられた所謂「育ち
の良い」人は往々にして純粋ではあるが未成熟でありともすれば「高貴な死を選
ぼう」とする傾向が強いのではないか。今回の福田総理の辞任はその典型だけれど
福田氏に限らず、安倍前総理だって、細川前首相だって、ずっと時代を遡れば近衛
文麿だってそうだったと思う。これらの人々は「卑屈な生の泥沼の中でそれでも
諦めずに執念深く粘り強くゲリラ戦を続ける」よりは、責任を投げ出して「高貴な
死」を選んだ。

柔道100キロ超級で金メダルを取った石井選手が福田首相について述べた感想は
間違いなく当たっている。「びっくりするほど純粋な人と感じた(だから政治家
に向いていない)」と彼は言ったのだ。
慧眼である。
上に述べた人々などは辞任の理由は、週刊誌がかき立てる邪推「裏金が」とか
次の一手をねらって」とか言った下世話なものとは恐らく距離がある。
ついでに言うと、週刊誌に見られる邪推は記者、編集者の育ちの悪さを示している。
育ちが良い人間は、わざわざ邪推などしない(そういうことに無関心である)。
他者に過剰な興味を持ち、己の相対的な立ち位置をやたら気にするのは育ちの悪さの
証拠である。

とはいえ、実際には「高貴な死を選ぶ」のは非常に不都合である。
なんとなれば、人は一人で生きるものではないからだ。
自己満足で高貴な死を選ぶことが、関係している多くの人たちに被害を与えること
が多々ある。よって責任ある人間は苦しくても辛くても「卑屈な生を選ぶ」必要
に迫られる。育ちが良い人間にとっては、実に屈辱的で「死ぬより」辛い事である。
以前取り上げた西郷隆盛だってそういう意味では「高貴な死」を選んだ人で、
「書生とオトナ」に書いたとおり、書生気質で未成熟と言われても仕方ない部分を
多量に持ち合わせていた。

そして、そういう西郷に惹かれる僕自身も、記事に書いたとおり「高貴な死」を
選びたがる、いい歳をして未成熟な人間なのだ。
成熟してオトナにならないといけないのだろうな、本当にもう笑ってしまうほど
いい歳なのだから。

でも、それが難しい。
実に難しいのだ。