風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

コロー展

僕にはやっかいな性癖があって、美術館やコンサートに行って「なんとなくこの曲
が好き」とか「この絵、いいよね。僕好み」とかいう楽しみ方ができない。
そういう時は必ず「この曲の何が自分を動かすのか?」とか「この絵から何が響いて
くるのだろう?」とか「この作者は何を表現しようとしていてそれがどういう作用を
自分(または聴衆、見る人)に働きかけるのか?」などと考えてしまう。
今回見た国立西洋美術館のコロー展も考え込んでしまった。

コローの絵を見てまず感じたのは「絵が上手い!」ということである。
構図が実に均整が取れていて、絵の中にある色や、シャープな部分とダルな部分の
配置や明暗の幅など、非の打ち所がなく間然とするところがない。
これは、僕のような素人でも明らかにわかることで、例えば絵の中の一本の木、一人
の登場人物が消えたことを想像しただけで、一気に絵としての魅力は激減する。
それから同時に「ルービンシュタインの演奏のようだ」とも思った。
アルトゥール・ルービンシュタインはもう亡くなった巨匠ピアニストだけれど、この
人の演奏は暖かくて大らかで神経質なところがなく、聴く者に幸福さを与えてくれる
至芸だった。そして、反面、ルービンシュタインの演奏には鋭角的な部分や現代性や
知的に尖った匂いがない。
それに似た雰囲気がコローの絵からも漂ってくるような気がしたのだ。

さらに感じたことを列挙する。
コローは沢山の肖像画を描いており、中には”コローのモナリザ”と称される「真珠
の女」もあるのだが、それらを順を追って見ているうちに僕は不思議な感じを受けた。
これらの人は「人として描かれていない」ような気がするのだ。
僕もそれほど多くの絵を知っているわけじゃないけれど、肖像画の多くからは描かれて
いるモデルの「意志」や「人となり」や「感情」や、そういった「何か」が伝わって
くるものだと思っていた。しかし、コローの肖像画からは伝わってくる「何か」が希薄
なのだ。
例えば「真珠の女」は素晴らしい絵だけれど、ダヴィンチの「モナリザ」とは明らか
に違っている。どちらも永遠の美を、永遠の静寂さを絵には封じ込めているけれども
モナリザにはあの口元の謎めいた微笑みがある。
しかし「真珠の女」にはそれがない。
率直に言ってしまえば、僕はそれには少し苛ついた。
正直、物足らない気がしたのである。
同じことが風景画の中で描かれた人物のどれについても言える。

もちろん、この人は世評がそうであるように風景画の人なのだろう。
どの絵も実に均整が取れていて静謐が感じられる。
ここでは人物画で物足りなく感じた意志的なものや感情の欠如が、むしろ心地よさを
生み出している。
どの絵も地味ではあるけれどもひたすら美しく、ひたすら静かである。
ここまで書いたところで、小林秀雄がコローについて何か書いていたのを思い出した。
手元の本をひっくり返したところ「近代絵画」のセザンヌについて書いた章だった。
引用してみよう。

【引用始まり】 ---
コローは、光や空気にも敏感な非常に鋭い自然の観察家だったので、
その点で印象派の先駆者とさえ言われているが、印象派とは、自然
に対する態度が根本のところで異なっていた。彼の見る風景は風景
は、人間の言葉を語っていた。木陰からニンフが飛び出してきても
不思議はなかった。
彼の自然観察の土台には、光学理論があったのではない。
ラ・フォンテーヌやラマルティーヌの詩があったのだ。
何処其処の風景画とは、誰々の肖像の様に、顔を持ち性格を持った
ものだったので、何処に生えていようが、同じように光と戯れるモネ
の描くポプラ樹などは、コローの想像してもみないものだった。
【引用終わり】 ---

コローが描く風景画は、モネの睡蓮のように自らが一個の目と化して光と影をひた
すら観察してそれを画面上に構成したものではなく、コローが美しいと感じる風景
を画面上に理想的に再構成したものなのだろう。
そう考えて僕には多少は納得ができたような気がする。
コローは風景画と同様に人物も描いたと考えてみよう。
彼は自分の人物画にも風景画同様強い主張を持たせなかった。
ひょっとしたらとても内省的だったというコローが理想と思う人となりは「強い
自己主張を持たないこと」だったのかもしれない。

と、、ここまで書いても、コローという画家について、やはり僕の考えはまとまらない。
今回は重たい展覧会のカタログを買って帰った(笑)。
また解説を読みながらゆっくり考えてみたいと思っている。