書生とオトナ
司馬遼太郎の「翔ぶが如く」を読み返していて面白いフレーズに行き当たった。
木戸孝允と西郷隆盛についての記述である。
【引用始まり】 ---
木戸は、あくまで書生気質を維持している。
このあたりが滑稽で、木戸は本来の性格からいえば非書生的であり、うまれ
ついてのオトナという面が濃厚であった。たとえば血気に逸らず、言論に
断定を用いず、いかなる場合も逃げ道を考え、行動は慎重で、考えぬいた
上でなお行動しないことが多かった。
いわば、性格としては長者の資質があり、頭目にもなりうる。
(中略)
西郷隆盛は、形態としては頭目であった。しかしその本質は頭のてっぺん
からつまさきまでオトナでなく書生であるという、木戸とは逆の矛盾を
もっている。
西郷は木戸とはちがい、自分自身の言動において保身の逃げ道を考えず、
つねに体腔に濃厚な血気を湛え、物事を熟慮しぬくかわりにいったん決断
すれば骨がささらになってでも往く、というところがあった。
さらに西郷の本質が書生である点は、元来他人への好悪がつよく、他人の
奸邪を憎むところがはなはだしく、その意味では巨大な子供であるという
ところであった。
【引用終わり】 ---
この「書生」と「オトナ」という分類は非常に面白い。
僕自身について言えば、多分に「書生」であるにもかかわらず「オトナ」として
振る舞うことを求められている、というか、己に強いている感じである。
僕は以前「「最近読んだ本」」に書いた通り、西郷隆盛が好きで特にその書生っぽい
言動が好き、というか惚れているようなところがある(西郷隆盛が好きな人は
たぶん皆そうなのだろうが)。
もちろん、どんな人間でも「書生」的な部分もあり「オトナ」的な部分も持って
いてそのバランスのある点に位置づけられるのだろうが、僕の価値観の中では
どうやら「書生」のほうが「オトナ」よりも格好良く感じられるようだ。
しかし、司馬はそれでは「頭目」としては問題あり、と言っている。
自分よりもオトナだなぁ、と思う人は沢山いる。
逆に自分よりも書生だなぁ、と思う人も沢山いる。
そして、僕自身、その両者を引き比べると、どうしても「書生」に惹かれ、
「オトナ」を敬遠する傾向は間違いなくある。
ただ僕が自分でも自分を分析出来ない、と思うのは「僕の本質が書生っぽい
から書生らしさが好き」なのか、「本質はオトナなので、書生っぽさに憧れて
いるのか」という点である(これは僕を知っている人から客観的なご意見
をお聞きする以外知る方法はないのだが)。
さて「書生に憧れる男」が「頭目」であるためには、どうすれば良いのだろう?
「オトナ」になれば良いのだが「オトナ」はあまり好きではないのである。
またまた難問を抱え込んでしまった次第である。
- 作者: 司馬遼太郎
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