風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

エマールの「フーガの技法」

昨夜、帰宅してTVをつけたらピアノの音が耳に飛び込んできた。
バッハの「フーガの技法」の演奏で、ピアニストは僕の知らない人。
あとで調べたらピエール・ローラン・エマールだった。
確か現代曲の演奏では名前を聞いたことはある。
フーガの技法」は僕の大好きな曲でもあるのでそのまま聴きいってしまった。

バッハの「フーガの技法」は特殊な曲である。
この曲には「この楽器で」という指定がないのために、ピアノで弾かれることも
あれば、チェンバロやオルガン、それどころか弦楽四重奏などで演奏されること
もある。さらに、この演奏すると60分以上かかる14のフーガと4つのカノン
で構成される曲は、たった一つの主題(テーマ)をあらゆる対位法のテクニック
を用いて展開・組み合わせを行って作曲されたものなのだ。
フーガひとつひとつが独自の小宇宙と言ってよく、その構成美は比類ない。

好きな曲なので僕の手元にもあれこれ音源がある。
グレン・グールドのスタジオ録音とモスクワでのライヴ、タチアナ・ニコライエワ
の演奏、若き日のゾルタン・コチシュの演奏、そしてジュリアード弦楽四重奏団
演奏など。中でも僕の手がよく伸びるのはニコライエワの全曲演奏とグールドの
モスクワでのライヴ(抜粋)。
ニコライエワの演奏は驚異的な演奏で右ペダルを多用した一種ロマンチックな演奏
なのだがまったく音の濁りというものがない。立ち上がってくるエコーのかかった
各声部の比類ない美しさ!
この音源を聴くたびに10年以上前にニコライエワの演奏会に足を運び、そのペダ
リング技術の妙に息を飲んだことを昨日のことのように思い出す。

そして、グレン・グールドのモスクワ・ライヴ。
そのテンポと完璧なリズム感、切れ味の良さと立ち上がってくるロマンチシズム、
そして各声部を完璧に引き分ける驚異的なテクニックに息を飲む。
しかし、僕もこの曲を弾きたくなって楽譜をいくつか買って読んでみて驚いたのだが、
グールドは専門家の評判のきわめて悪いツェルニー校訂版の楽譜に忠実に弾いている。
逆に言えば、ツェルニーの校訂譜はピアニスティックに美しく響くように校訂されて
いる、とも言えるのだろうか(バッハの意図を曲げたかどうかは別として)。

さて、今回のこのエマールの演奏はどうだったのか?
悪い演奏ではない、と思う。
ある意味、現代ピアノの機能を最大限に生かした現代的な演奏、と言ってさし
つかえなかろう。左の弱音ペダルも多用して音色にも変化を持たせつつ
(これはチェンバロレジスターを変えたり、オルガンのストップを変える
ような効果なのでおかしくはない)メリハリもつけつつロマンチシズムも忘れない、
といった演奏になっている。
そして、何よりバッハに演奏につきもののように思われる一種の神聖さのような
ものとは無縁である、という点においてモデルンな演奏と言っていい。

その意味で僕が一番驚いたのは未完のフーガ(コントラプンクトゥス14)
の演奏だった。この曲が演奏の最後に置かれていないことも驚きだったが、
どの演奏者も「祈りの音楽」として弾くこのフーガを、エマールは途中3つ目
の主題としてB-A-C-Hのテーマが出てくるあたりから祈りとは無縁の音楽として
演奏する。そして、むしろバッハには未完に終わった先に大きな構想があり、
ここまでは単なる前置きに過ぎないのだ、と言いたげに弾くのだ。
これはとても新鮮な驚きだった。

しかしながら、である。
僕などが言うのは恐れおおいことだが、エマールの演奏テクニックには少々
難がある。たとえば昨日の演奏であれば、コントラプンクトゥス4のような
複雑で込み入った速いフーガになるとそれが計らずも露呈してしまう。
エマールが「こう弾きたがっている」というのはTVの画面からも伝わってくる
のだが、残念ながらテクニックの問題でその意図を完全な形で聴衆に伝えられる
だけの声部の際だたせ・バランス・強度が達成されていない。
フーガの演奏においてはそれは致命的なことだ。
グールドやニコライエワにおいてはそれはあり得ないことだった。
決して悪い演奏ではないし、現代的で新鮮なバッハ、とは言えるのではあるけれ
ども。

それにしても聴いていてやはり「フーガの技法」は素晴らしい曲だ、と再認識した。
こんど自宅に帰ったら鍵盤で自分も音を出してみたい。
一番易しいコントラプンクトゥス1でも、僕には弾くのは至難なのだけれども。
ともかく、そんな気にさせてくれた演奏だった。