風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

モートン・フェルドマンの音楽

いわゆる「現代音楽」について書きたいと思う。
こう切り出しただけで読者がうんざりするかもしれない、と思っている自分に
気づいて思わず苦笑する。

そうです。
ゲンダイオンガクなんてものは、訳がわからぬ自己満足ものばかりでほとんど
がうんざりしてしまうような音楽だという「世の常識」を僕は否定しない。
ただ、作曲家たちを弁護するわけではないけれども、彼らも大変なんです。
バッハ、モーツァルトベートーヴェンがその殆どをやり遂げてしまった
フィールドで仕事をするのは本当に難しいことなんです。
歌舞伎にしても、能にしても、やっぱり現代で新しいものはなかなか出て
こないでしょう?絵画だってそうじゃないですか?
これは、恐ろしく長い伝統を背負った芸能や芸術の宿命でもあるのです。

と前フリをした上で今日はアメリカの現代音楽作曲家モートン・フェルドマン
の「Palais de Mari」を取り上げたいと思う。
この曲は1986年、フェルドマンの没年に作曲されたピアノ曲
ほとんどがピアノ〜ピアニシモの弱音の領域で演奏される約30分弱の音楽だ。

現代音楽なので調性はなく、ほとんど単音のフレーズが繰り返し演奏される、
ミニマル・ミュージックという範疇に分類されることも多い音楽。
しかしながらどこか人の心を惹きつけ、癒してくれる部分があると同時に、
弱音で演奏される静かな音楽なのに、内的な緊張感をはらんでいるように感じ
られるとても不思議な音楽だ。

この曲は一聴するとよく似たフレーズの繰り返しであることに誰もが気づくだろう。
しかしながら、注意深く聞くと繰り返されるのは同じ音列、同じリズムではない
ことがわかる。
繰り返しが出てくるたびに音列と間は微妙に変化し、微妙にズレている。
その微妙な変化とズレがまるでモアレ模様のように音楽全体を覆っているのだ。
それが、静けさの中の緊張、予定調和からの逸脱による不安定感を与える。
その不安定感は、そう、たとえて言えば、山歩きをしていて太陽がふっと翳ったり
また陽光がさっと射してきたりするような、あるいは水だれが不安定なリズムで
ぽつぽつと水たまりに落ちる時のような、そんな自然の揺らぎを思わせる。

ライナーノートに面白いことが書いてあった。
フェルドマン本人がツィマーマン(現代音楽作曲家)との会話でこのようなこと
を言っている(僕の私訳です)

【引用始まり】 ---
ペルシャ絨毯のバランスの取れたシンメトリーが一方にあり、他方にトルコ
遊牧民の絨毯に見られる非シンメトリーの原則が他方にある。ペルシャ絨毯
は絨毯全体のパターンが見えるように編まれているが、トルコ遊牧民の絨毯
の場合、出来上がった(パターン)全体は下層に消えてしまう。
言い換えれば「記憶に移行されるもの」は(目で)見えるようにはならない
【引用終わり】 ---

ライナーノートの筆者(Volker Straebel)はこう述べている。
【引用始まり】 ---
フェルドマンはこの曲で作曲の原則を「記憶」に置いた。
音の組合わせは提示されず、わずかなリズム変化、異なった長さで演奏され
る和音が記憶に受け止められる。正確な繰り返しはなく、非常にしっかりと
組織された「繰り返しのサイン」が記録されているのだ。
【引用終わり】 ---

静寂の中で不安定と安定の境界に危うく揺れながら立っているオブジェ。
この曲を聴いていると、僕はそんなイメージを想起する。

*このサイトで「Palais de Mari」全曲を、RealAudioで無料で聴けます ^^
 「アメリカの現代音楽試聴サイト」
  http://www.artofthestates.org/cgi-bin/piece.pl?pid=92

Aki Takahashi Plays Morton Feldman

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