風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

「犬を連れた奥さん」

ロシアのチェーホフという小説家をご存じですか?
日常の一こまを、簡潔に静かに描写する作家です。
チェーホフに「犬を連れた奥さん」という小説がある。
不倫の恋を描いた短編小説だ。
短くて、読みやすくて、それでいて納得できる言葉に満ちている。
モーツァルトの初期のピアノソナタのような簡素な美しさ。
文庫本でとても安いですし、この話はたった25ページです。
よろしければ読んでみてください。

少し、抜き書きしてみます。
主人公グーロフは、数々の女性遍歴がある女たらしの既婚者。
彼の描写はこう。

男同士でいるときは退屈で、落ち着かず、無口で冷淡になるのだが、
女たちの中にいるときは自由な気分になり、話題といい立居振舞い
といい、心得たものであった。女たちとならば黙っていてさえ気が
楽だった。グーロフの容貌や性格には、つまりこの男の天性には
捉えがたい一種の魅力があって、それが女たちの心を惹き、女たちを
招き寄せたのだろう。グーロフはそのことを意識していたが、彼自身
もまた何かの力によって女たちの方へ引寄せられるのだった。

グーロフは避暑地ヤルタで、犬を連れて毎日散歩している女性に目をつけ
親しくなる。その人妻アンナはグーロフに初めて唇を奪われた時、取り乱
してこう言う。

私はまじめな、きれいな暮らしが好きで、まがったことは大嫌いなの。
今自分がしていることはさっぱり分からないわ。よく世間では、魔が
さしたって言うでしょう。今の私はちょうどそれなのよ。
魔がさしてしまったのね。

遊び人のグーロフにとってみればアンナとのアバンチュールは「避暑地
の恋」にすぎないはずだった。しかし、避暑から帰ってからもグーロフ
の頭はアンナのことでいっぱいになったままだ。とうとうグーロフは
アンナの住む町まで出かけてゆき、再会を果たす。グーロフは今度という
今度はアバンチュールではなく、アンナを愛してしまったことに気づくの
だった。二人は手を取り合って、今後のことについて話しあう。
それがこの小説の最後のくだり。
この部分、素晴らしい。

どうしたら人目を忍んだり、人を欺いたり、別々の町に住んだり、永い
こと逢わずにいたりしなくてすむようになるだろうかと、二人はそれから
長々と相談した。どうしたらこの耐えがたい枷から解放されるのだろうか。
「どうしたら? どうしたら?」とグーロフは頭をかかえて尋ねた。
「どうしたら?」
 もう少しで解決の道が見つかり、そのときはすばらしい新生活が始まる
だろうと、ふとそんな気もした。しかも二人にははっきり分かっていたの
だが、終わりまではまだまだ遠く、最も入り組んだむずかしいところは
今ようやく始まったばかりなのだった。

19世紀ロシアでも、21世紀の日本でも、恋路には違いはないようですね。
人間はきっと太古の昔から営々と、こういう同じ様なことを続けてきて
いるのだろうな。

可愛い女(ひと)・犬を連れた奥さん 他一編 (岩波文庫)

可愛い女(ひと)・犬を連れた奥さん 他一編 (岩波文庫)