風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

シリウスの道

過去にあづみさん卯月さん九子さんが取り上げている藤原伊織氏の小説
に興味を持ち「テロリストのパラソル」「ダナエ」「シリウスの道」と読んでみた。
正当派ハードボイルド小説群、というのだろうか。

僕の第一の感想は「違和感がない」というものだった。
主人公の「いかにも」なセリフ回しに若干辟易するところもあるものの(以前の
記事「白洲次郎」に書いた通り、僕はこの手の「過剰さ」は正直好きではない。
もっと静謐の中で筋を通す強さがあっていいと思うから)しごくまっとうで
魅力的な男であると思う。

他の方も書いておられる通り、藤原氏の小説は「男のロマンチシズム」を表現した
ものだ。興味深いことに主人公たちは、経済学において「経済合理性」という用語
で定義される『標準人間モデル』(ある行動をとったときの「便益」(benefit)
と「費用」(cost)を比較して、前者が後者よりも大きければその行動をとる。
逆であればその行動をとらないという仮定の人間モデル)を逸脱している。

こういう人物を主人公にする小説や映画が実に多いのは面白い。
なぜなら「経済合理性は非ロマンチック=カッコ悪い」と感じる人も多いことを
示しているからだ。
かくゆう僕にも、そういう部分は多分にある。
「○○のほうがトクだ」とか「自分(の欲望)に正直に」などという言葉を聞くと
正直虫酸が走る。「経済合理性」はこの時代の錦の御旗なのに、どうやら相当
ズレているらしい(笑)。
もっとも、だからこそ藤原氏の小説を読んでも違和感を感じないのだろうが。

それから藤原氏の小説に登場する主人公たちと女性の関係。
どの主人公たちも、心の奥底に秘めた「特別な女性」を持っている。
それら特別な存在と主人公たちは、ある関わり(恋愛であったり淡い慕情であった
り)を持っていたのだが、それは過去の事で現在は彼女らと接点を持っていない。
しかし、彼女らに対する主人公の感情は、まさに「特別」であって、現在、主人公
を取り巻く異性たち(魅力的に描かれている)とはまったく別格の存在として描か
れている。
彼女らは主人公たちにとって「思い出の中で昇華された女神」なのだ。
目の前にいる女性がいかに魅力的であっても、到底比較できないようなそんな
特別な存在なのだ(だからこそ、主人公たちは結婚していないし、目の前の女性
たちとは関係しないのだろう)。

そして、それら女神たちも、主人公たちを決して忘れることなく、心の奥で特別
な存在として「別格」に取り置いていたことが、小説の中で暗示される。
これも男のロマンチシズムだと思う。
こうであってくれたらいい、という男の願望に答えるものでもあるだろうが、
それ以上に藤原氏からの『思いとはこういうレベルで初めて”恋”とよべるのだ。
恋とは取り替えのきくような軽いものではない』というメッセージに思えてならない。

さて「シリウスの道」の話に戻ろう。
この小説の舞台は広告代理店で、ハードボイルドと言ってもビジネス小説と言える
内容になっている。僕はこの物語に登場する人物そのものには違和感は覚えなかっ
たものの、そこで交わされる会話には正直違和感があった。
例えば会議の会話でも、上司や部下との会話でも、無駄がなさ過ぎ論理が直線的
でありすぎる点についてなど。自分が日々過ごしている職場の会話のシーンと
簡単に比べることができるが故にそう感じてしまったのかもしれないが。

しかしこれは意図的な「スケール・エフェクト」かもしれない、とも思う。
「スケール・エフェクト」とは例えば模型を作るときに、模型に実物と同じ色を塗り
同じディティールをスケールダウンして付加してもホンモノらしく見えない、という
事実を言う。スケールダウンするときは、模型には実物よりも明度を上げ彩度を下げた
色を塗らねばならないし、単純な縮尺よりも若干大きめのサイズのディティールを
つけて密度感を上げないとないとホンモノらしく見えない。

小説でも同じことが言えるのではないか。
現実をそのまま描いても、小説としては魅力的にはならないだろう。
会話にメリハリ感やスピード感を与えることで小説に推進力を与え、主人公の性格を
より明確に打ち出す、そういう目的あっての表現なのかもしれない。
そう考えると、最初に僕が触れた「過剰さ」も「計算された過剰さ」なのかもしれ
ない。この手の小説では読み手にドライヴ感を感じさせることも求められるからだ。
恐らく藤原氏の小説は徹底的に緻密な計算の上に作られた作品なのだろう。

ドライヴ感に溢れているけれども、反面、情感や懐かしさも十分感じられた良質の
エンターテイメント小説だった。
惜しい作家を亡くしたものだ、と思います。

シリウスの道〈上〉 (文春文庫)

シリウスの道〈上〉 (文春文庫)