風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

「しょうがない」と言うものか

田口ランディさんの記事「しょうがない」について

今日辞任した防衛大臣の「原爆はしょうがない」という発言に関してだけれど
「しょうがない」という言葉についてのランディさんの考察に感じるところがあった。

【引用始まり】 ---
生きているということは、だんだん急勾配になるすべり台にしがみついて
いるようなものだ。時間が経てば経つほど、過去の悲惨、過去の過ちから
滑り落ちていく。久間さんは、手を離して、すべり台をすべり降りてしま
ったのだ。

手を離してしまえば、たぶん楽だ。
しょうがなかった。
この一言で、降りられる。
そうやって、私たちは、どこかで諦めて、手を離してすーっと急勾配を
すべり降りて楽になる。

二度と同じ間違いは繰り返しません。あなたたちの苦しみは忘れません。
そう言い続けることの、責任と重さに耐えられなくなる。
政治家がそうなのだから、戦後に生まれた若い世代はなおのことだ。
いくら歴史の勉強をして習っても、この、どんどん傾斜がきつくなり
急勾配のすべり台に、指の力だけでしがみついているのは苦しい。
だからって、しょうがないと言っていいのか
【引用終わり】 ---

「生きているということは、だんだん急勾配になるすべり台にしがみついて
いるようなもの」というこのコメントは全く正しいと思う。
これは何も今回の件や政治家の発言に限らない。

人間は歳を取るにつれて、あらゆることが面倒になってくる。
そして「生き方へのこだわり」を保つ元気がなくなってくる。
現実の世界から日々加えられる打撃で、身も心もサンドバック状態に陥って
どうでもいい、という気分になり、はては手を離して滑り降りてしまう。
そして「しようがない」「現実なんだ」「誰でも本音はそう思ってるはずだ」
と自分に言い訳したり、居直ったりするのだ。
「楽に生きて、なにが悪い? みんな、そうだろう?」と。

僕も、だんだんとすべり台からずり落ちつつある。
それは悔しいし悲しいけれど、自覚している。
それでも、僕の手はまだすべり台から完全に離れてはいないはずだ。
離れていない、と信じたい。
離してたまるもんか、と思う。