風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

「言葉の力」再考

水曜からのドイツ出張に向けて重い腰をあげて荷造りを始めた。
現地7泊なので結構な量になり、詰めていて気が重くなる。
出張でない旅行でも荷造りをしている時はだいたい憂鬱で、行きたくない気分になる
のだが、出張なのでなおさらである。ああ遠いな、またドイツか、ハンブルグか、と
思ったとたん村上春樹ノルウェイの森」の冒頭を思い出した。
あの物語はハンブルグ空港に到着した飛行機の中で、ビートルズの「ノルウェイの森
が流れてくるところから始まっていたはずだ。


ノルウェイの森」について思いを巡らせるうち、あの小説は柴田翔の「されど、われら
が日々−」と似ていると思った。どちらの小説も恋愛小説だし『主人公にとっていちばん
大切な存在が消えてしまう』という喪失をテーマにした物語ではあるが、全体的な構造
だけではなくもっとトリヴィアルな類似がある。
それは、どちらも「手紙」が重要な役割を果たしていることだ。
大切なことや重要な思いが、手紙によって伝えられたり、逆に伝えられずに終わっている。
しかし、この物語の主人公たちは、手紙にそれだけのものを託したのだ。
話された言葉と書かれた言葉。
思えば、他の小説でも、ひとの思いを文字に託す形になっているものは多い。
小説家は書かれた言葉の力を信じているが故なのか。


僕はかつての記事(「言葉の力」)でネットでの書き言葉をイメージしつつ「言葉の力を
信じすぎないように」と書いた。
しかし最近は「結局、この世界は言葉によって構成され、組み立てられているのだから、
限界はあっても、ひとは言葉の力を信じるしかない」という風にまた思いが移りつつある。
書き言葉からは「こぼれ落ちるもの」は必ずある。
しかし、書き言葉と話し言葉を比較した時、話された言葉のほうがその「こぼれ落ち」が
少ない、と必ず言えるだろうか?表情や雰囲気やニュアンスによって話し言葉のほうが
少ないとも考えられるが、逆に話し言葉はより多くの曖昧さや夾雑物を余計にすくい取る
ことにも繋がる。意味の純度が高ければ良いわけではないけれど、一概に話し言葉が優れ
ているとは言えないだろう。


書かれた言葉の力ですくい取れる「ほんとう」はどこまでだろうか?
そこには限界があっても、ひとは思いをそれに託すのだ。
ノルウェイの森」や「されど、われらが日々−」の主人公たちがそうしたように。