風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

模型作りを遠くに眺めて

僕が小学校、中学校のころはプラモデル全盛期で男の子の多くがプラモデルを作って
遊んでいたような記憶がある。それも最近はやりのガンダムというそういうのでは
なくて、ゼロ戦やタイガー戦車といった飛行機や戦車の模型だった。
僕もその一人で、仲間たちと一緒に作り較べをしたり、ジオラマといって地形や草木
を再現したベースに戦車や兵隊の模型を置いて楽しんだものだった。
缶スプレーを使って色も塗り、結構一生懸命作ったし、残っている当時作ったプラモデル
の写真を見てもそうひどい出来でない、と思う。


僕の叔父のひとりは当時もう仕事をしていたけれど、手先が器用でプラモデルをとても
上手に作った。上手に組み立てられ色を塗られた小さなゼロ戦やらムスタングやらグラ
マンやらのプラモ。僕にとってそれらは魅力的で触っちゃいけない、といわれても、
我慢できずに触り、壊してしまってはよく怒られていた。
その叔父がまたプラモデルを作っていると母親から聞いたのが3年ほど前。
懐かしい、僕も作ってみようかな、と思って模型雑誌を買うようになった。


模型雑誌を読むようになって驚いたのは、今のプラモデルの精巧さと価格の高さと作例
の驚嘆するしかない出来映え。そして、作っているひとたちの年齢の高さ。
有り体に言えば、今の僕よりも年上の人達ばかりがプラモデルを作っている。
だから記事の中でも老眼が話題になったりしている。それだけではなくて、それだけの
人生経験を経た人達が模型について本気で語るわけであるから、話がやたら深くなる。
絵画論であったり、リアリズム論であったり、趣味と人生のかかわりであったり。
読んでいるだけでも本当に面白いのである。


で、結局、僕がプラモデルを作っているか、というと作っていない。
模型店に行って実際の作品を見たところ雑誌に写っているよりもちゃちに(所詮は
プラモデルに)しか見えなかったことや、いざプラモデルを買って部品を組んでと
いう作業に踏み出すのがおっくうであることもあるけれども、それだけではない。
結局、僕にとって大切なのは前の記事に書いた「自分のものになった」という感覚なの
だが、その「自分のもの」になった対象が『何であるのか』も重要なのだ。
どうやら僕には苦労して「自分のもの」にする対象が「プラモデル」では不足のようだ。
ピアノならば一年かけて自分なりに完璧に(満足できるレベルで)モーツァルトソナタ
を弾けたとしたら、それだけの労力をつぎ込んだ甲斐を感じるし、多分後悔しない。
でも、プラモデルならば、一年かけて完璧なゼロ戦を作り上げたとしても、僕には不十分
なのだ。こんな言い方は模型を作っている人には失礼かもしれないけれど「たかがプラモ
ゼロ戦じゃないか」という気持ちを拭うことができないだろう。
自分がこれから時間と労力を費やすものは(たとえ趣味であったとしても)どこかで
「永遠」に繋がっていて欲しい、と僕は漠然と感じている。
プラモは僕が思うところでは「永遠」には繋がっていない。


では、絵を描くことならどうなのか?と考えてみる。
手すさびならともかく、僕が時間と労力を費やして本気で絵を描くことは多分ないだろう。
それは、プラモデルとは理由が違っていて「自分のものになる」という感覚を持てない
からだろうと思う。僕は(何度も書いている通り)絵については眺める方ですらビギナー
であって、描く方についてはビギナーですらない。よって、僕が絵を描いても「この絵は
自分の全てをつぎ込んだ自分の絵だ」という感覚を持つことが現状では不可能なのだ。
絵が「永遠」に繋がっていない、とか、時間と労力をかけるに足らない、という意味では
ない。これから絵に本腰を入れて、鑑賞するほうと描くほうの両方に時間と労力を費やす
よりは、既にある線までは自分で理解でき演奏できる音楽(ピアノ)を僕は選んだという
ことだろう。


結局、僕は人生の残り時間を考えているのかもしれない。
いろいろなものにチャレンジする好奇心とエネルギーが既に欠如しつつあるのか。
読書にせよ、趣味にせよ、拡散よりも取捨選択に向かいつつあることを感じる。
その基準はどうやら「永遠」と「普遍」に繋がる、ということらしい。
人間、歳を取るとそうなるものなのだろうか?
それとも、これは僕だけの傾向なのだろうか?