風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

ピアノを弾く意味

前回記事に書いたとおり、最近ピアノにはまっている。
ここ5年ほどご無沙汰だったのに、今は鍵盤に向かうのが楽しくてしかたない。
これは一時的なものでなく、これから長く僕はピアノを弾き続けるのだろうという予感を
強く感じている。
そしてそれは恐らく老後の余暇のため、というような種類のものではないだろう。
僕は(梅田望夫氏風に言えば)『沙漠をゆく旅人が水を求めるように』本を読んできたと
いう思いがある。
それと同じように僕の心はピアノを弾くことを求めているのだ。


若い頃「読書が趣味」という友達と話をして、彼らにとって読書は「癒し」であったり、
「気晴らし」であったり「気分転換」に過ぎないことを知り、とても驚いたことを覚えて
いる。僕にとっては読書はもっとずっと切実なもので、飢えた心が貪る必要不可欠な食物
だった。いったいどんな人生を送ってきたのか?と思われそうだが、それが僕の実感だ。
それと同じで、どうやら僕にとっての音楽は「癒し」であったり「気散じ」だけに止まらない
存在らしい。


本ならば読んで理解すれば、それについて考えることが出来る。
(ここまで書いて、僕にとっての読書とは本を読むだけではなく、それについて考える
 ことまでセットになっていることに気づいた。考えなければ読書ではない。)
読んで考えて、その考えたことが自分の一部を構成するようになってはじめて僕にとって
「自分のものになった」という実感がある。
では音楽ではどうか。
演奏会で音楽を聴くこと、録音されたものを聴くこと、楽譜を読むこと以外にも、演奏
することができる。そして弾いた曲はそれがたとえどんなに下手であっても「自分のもの」
になった、という実感がある。
この辺の感覚を、先日「日記帳」で紹介した岡田暁生「音楽の聴き方」ではこのように
記している。


【引用始まり】 ---
これは結局の所「いつ音楽は本当に私のものになるのか」という問題である。
美術と違って音楽においては、所有の概念が極めて曖昧である。絵の所有者
ははっきりしてる。金を出して買った人だ。だが音楽の場合、楽譜を購入した
だけでは、まだ本当にその作品を所持したことにはならない。またCDを買って
聴いたところで、本当にそれが自分のものになったという満足感は、必ずしも
得られない。高価で滅多に入手できない古いレコードなどは、美術品所有に
似た満足感を与えてくれるのだろうが、それはあくまで「モノ」を持つ歓び
だろう。
おそらく芸術における真の所有とは、愛しい作品がこの世でただ一人自分に
だけ、その内心を打ち明けてくれたと感じられることなのだと思う。
文学で言えば、大好きな小説や詩を一人で声に出して読んでみるとき。
あるいは、苦労してその国の言葉を勉強して、言語でお気に入りの作品を
読破したとき。
それに匹敵するものを音楽において探すなら何になるか。
言うまでもあるまい。
自分で音にしてみて初めて人は、その音楽が本当に自分のものになったと
実感出来るのである
【引用終わり】 ---


そう、「この世でただ一人自分にだけ、その内心を打ち明けてくれた」という感覚。
だからグレン・グールドのバッハのCDを聴いてどんなに感心しても、自分が同じ曲を弾く
とき、演奏は絶対にその真似にはならない。
自分だけが知っている「その曲の内心」を表現することが弾くことの意味なのだから。
僕がピアノを弾くとき、直接、作曲者であるバッハやベートーヴェンモーツァルト
の心と対峙し対話している、という生々しい実感を感じることがある。
それは至福の歓びとしか言いようがないものだ。
このあたりのことを的確に記述しているエッセイを引用してこの記事を終えよう。


【引用始まり】 ---
昨今ほど音楽が世の中にあふれている時代は過去にはなかっただろう。
いまどき、人がその気になりさえすればどんな音楽にも出会うことができる、
と誰もが思っているようだ。しかしほんとうに感動的な出会いの体験はそんな
ことでは得られるものではない。自分でピアノを弾くということは演奏するの
を聴いたり、レコードやテレビで演奏を聴いたりするだけで得られない、
もっと直接的なものだ。たとえそれがアシュケナージポリーニの演奏とは
月とすっぽんほどの差があっても、である。
作曲家の精神と自分の精神とが時代や国籍の違いを超えて、いま、じかに
向き合う。この辺のところは自分で弾いたことのない人にどう説明してみても
わかってもらえるのはむずかしいかも知れない。


何もあんな下手なピアノを弾かなくったってもっとよい演奏がいくらでも
聴けるのに、というのは弾いたことのない人の言いぐさであって、弾く
楽しさを一度味わった人は、その道がどんなにきびしいものであっても、
あいつもいい加減ピアノはやめればいいのに、と陰口を叩かれても、そう
簡単には引き下がれるものではない。
ピアノは自分で弾くべきものだ。


(”何のためにピアノを弾くのか”
  小林仁「仁さんのa'la ピアノトーク」より)
【引用終わり】 ---