風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

「人に迷惑さえかけなければ何をしてもいい」のか?

僕には大嫌いな言葉がある。
「人に迷惑さえかけなければ何をしてもいい」
という言葉だ。

何故嫌いか?
この言葉、一見まっとうで論理的に正しいことを言っているようなの
だが、人が言葉に出すときには、前半「人に迷惑さえかけなければ」より
も後半「何をしてもいい」に明らかに力点が置かれる。
つまり「何をしてもいい」の言い訳に「人に迷惑をかけてないから」
が使われることになるのだ。要するに、その形式論理の正しさを隠れ蓑
にして「ふしだらさを正当化」している、と言ってもいいと思う。
実のところ、真に問題になるのは「迷惑をかける」という『迷惑』の
内容なのに、それがあいまいに誤魔化されてしまうからだ。

では、いったい『迷惑』とは何なのか?
二つ例をあげてみる。
「金を払って女子高生買春したって、誰にも迷惑かけてねーよ。病気
 うつしたワケじゃねーし、金貰った高校生だって喜んでるじゃん」
「不倫して何が悪いのよ。バレなきゃ誰にもメーワクかけないわよ」

さて、このひとたちは、ほんとに誰にも「迷惑」をかけていませんか?
僕は、そうは思わないし、とてもカッコ悪い言い訳だなぁ、と思う。
それは、内容のふしだらさを形式論理の力で必死に「公明正大化」しよ
うとしているようにしか聞こえない。

どうして不愉快で、かつ、カッコ悪いのだろうか?
そう、確かに僕は直接「メーワク」はかけられていない。
しかし、人間には「想像力」ってものがある。
「想像力」とはつまりこういうものだ。

「自分に娘がいて、金を貰って薄汚いオッサンに身体を売っていたら、
 それがどれほど腹立たしく悲しいだろう」
「自分の娘が恋した相手が妻子持ちで、相手は離婚する気もなく、全く
 先が見えないのに必死で想い続けていたら、どれほど哀しいだろう」

どんなにあがいても、人は社会の網の目の中でしか生きられない。
社会の網の目の中では、幸福は一人で達成可能なものではなく、他者との
関係性の中でのみ実現できる。
では、出来るだけ多くの人が幸福になるために、お互いの関係性を尊重
できるようになるために、何が必要不可欠か?

僕はそれを可能にするのは唯一「想像力」だけだと思う。
他者の気持ちを思いやる、他者の立場に立って考えてみる、そういう
「想像力」だけがこの腐った社会を少しでもマシにする力を持っている。
その「想像力」を失ったり、蓋をしたり、麻痺させたりするようなこと
だけは、絶対にするまい、あってはならない、と思っている。