風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

Comment 〜己れを世界に開くということ〜

読者の方からブログ記事に頂けるコメント。
この位置づけは、記者それぞれによって微妙に異なるようにも思う。
今日は僕の「コメント」についての考えを書いてみたい。

僕は以前から何度か「ここで綴る記事は何らかの形で読者につながる普遍性
を持たせたい」と書いている。記事内容に普遍性があるからこそ、読者は
自分とつながる何かを感じ、それがコミュニケーションが始まる契機になる
はずだ、という思いがある。
もっとも(失礼な言い方になるかもしれないが)ほとんどのブログはそれほど
読者に対する「普遍性」を意識して書いておられるとは思えないし、単に内面
の思いを綴るだけでも読者が記事の「ある部分」に共鳴し、何かを受け取って
くれコミュニケーションが始まることもあるだろう。

では何故、それでは僕にとってはダメなのか?
何が不満なのか?
どうしてわざわざ「普遍性」にこだわるのか?

僕はコミュニケーションには深さ、浅さがあると思っている。
ここで言う「浅いコミュニケーション」とは、記事内容あるいは記者本人の
表層的な共感や反感、感情的な共鳴や同意あるいは不同意、といったたぐいの
ものだ。人間のコミュニケーションの恐らく95%はこのレベルのもので、
それはごく普通のコミュニケーションで交わされるもの(ネットだけではなく
リアル世界も含めて)だと思う。もちろんそれは必要不可欠なものだし、極論
すればそれだけあれば生きるには困らない。
「浅いコミュニケーション」の中にも、楽しみや喜びは沢山あるのだから。

けれども。

僕はこのブログで「深いコミュニケーション」もしたいと思っている。
「深いコミュニケーション」とは、何も秘密を共有するとか、好きだの愛している
だの、そういう意味ではない(笑)。
・屹立する個と個の精神のぶつかりあい。
・己の哲学と他の哲学、自分の生き様と他者の生き様との交錯。
・そして、その結果訪れる深い相互理解と承認。
僕は、そんな場をも求めているのだ。

丸い円が個人の生き様、哲学だとしよう。
浅いコミュニケーションではその円と円が外部に描かれた矢印でやりとりしている
イメージだが、深いコミュニケーションはその円と円が接触ないしは重ならないと
行えない。それは自己を開示し、他によって浸食され、重なった部分では火花を
散らし、己れの生き様を賭けて心をやりとりすることになる。
「自分と他者の境界を探る作業」と言い換えてもいいのかもしれない。

そんな「他流試合」の為に、僕が流し続けているメッセージが「普遍性」だ。
それもさらに言うなら「抽象的な普遍性」。
抽象的な普遍性を読み解くには、読者側にもそれなりの努力がいるはずだ。
それを読み解いてでもコメントをつけようと(コミュニケートしようと)して
下さる読者は、それなりに僕の精神と深く交流しようという気持ちをお持ち
だろうと思うのだ。

自分一人で閉じるつもりなら、記事に普遍性を持たせる必要などない。
 「他に向かって己れの世界を開きたい」
 「自分の考えを他者が読むこの場で試したい」
 「皆さん、どうぞ何かをおっしゃって下さい」
これが記事に普遍性を持たせることによる、僕から読者へのメッセージだ。

真剣なコメントのやりとりにはエネルギーと当然リスクが伴う。
僕は、コメントやレスを書くのに場合によっては記事以上に時間をかけている
ことだってある。
また、チェスや将棋をやっているような気持ちで書いていることもある。
「次は駒をこう置きますよ、如何ですか?」
「この手はどう思われますか?」
そういう意味では時々、僕のコメントは横道に逸れたり挑発的なこともあると思う。
そういうことをわかって書いているから、コメントにどんなレスがつくのか、緊張
しながら、ドキドキしながら待っていることも多い。

こちらでリンクさせて頂いてきたgonさんのブログ「Wordcage」のタイトル下には
『コメントも含めてblog』との一文があった。
ブログとは、記者が自分の書きたいことを書くだけの場ではない。
世界に向かって己れの精神を開くこと。
他者の意見に耳を傾け、意見を切り結び、精神を交流しお互いの認識を深めること。
ブログはそのための場でもある、というのが僕なりのこの一文の解釈なのだ。
このたびブログを閉じられるgonさんのご厚意で、この一文をこのブログに掲げ
させていただくことにした。

『コメントも含めてblog』

僕はこのブログを、この世界を、読者の皆さんに向かって開き続けたい。