風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

今更「北斗の拳」の世界観を問う

北斗の拳、という漫画があったのはご記憶のことと思いますが、何を隠そう、僕は
あれにハマってしまっていた時期があって、コミック全巻(15巻)を二回買った
ことがあります。買って愛読していたのですがいろいろ本を買ううちに置き場所が
なくなり古本屋に出して、それからまた全巻買って、さらに古本屋に出して、を
二回やってしまった、ということです(ちなみに今は持っておりません ^^;)

内容をご存じない方はググっていただくなりウィキペディアで内容を概覧いただけば
と思いますが、読んでいた当時、最初から僕はこの物語にどこか「違和感」を持ち
続けていました。もちろん単純かつ荒唐無稽で馬鹿馬鹿しいストーリーとバックグラ
ウンドの漫画なのですが、それが違和感の主因ではありません。
考えるのが趣味の僕はずっとその違和感の原因を考えていたのですが、最近になって
やっと「これが原因なのだろう」と整理ができました。
それについてここに書いておきたいと思います。

北斗の拳」の世界観の中心には「愛」があります。
それも博愛や共同体の愛や諸宗教が教える愛ではなく「”個人的な”愛」
「個人的な愛」こそが、この世界でもっとも大切なものである、というテーゼが貫か
れているように思える。
それが、僕の違和感の原因でした。

一例をあげましょう。
南斗聖拳の帝王・サウザーは愛する師を一子相伝の拳法を継ぐために殺さなくては
ならないことになり「もう愛など要らぬ」と心に刻み悪の帝王になる。しかし、
北斗神拳に敗北した最後の瞬間にケンシロウに「師のぬくもりを覚えているはずだ」
と諭されたサウザーは顔の邪悪さが消え、子供のような顔になって静かに死ぬ。
ほかにも同様の構図は沢山この物語の中に見られるのですが、どれも「憎しみ」を
打ち消すものは「愛」である、「憎しみ」は「愛」によって克服される、という
テーゼが貫かれています。
実は、このようなテーゼは「北斗の拳」にとどまるものではありません。
僕の記憶している限りでは「宇宙戦艦ヤマト」にしても似たり寄ったりで、ガミラス
星を破壊した主人公・古代進は「俺達がするべきだったことは、彼らと戦うことでは
なく愛することだったのだ」と言う(記憶なので正確な台詞ではありません。大意は
そうだったと思います)のです。

しかし、本当にそうなのでしょうか?
よく知られているように「憎しみ」は「愛」の裏返しに過ぎません。
「愛」も「憎しみ」もひとつのきっかけでひっくり返るコインの両面であって、
非常に不安定な情念の産物です。ある程度人生経験を積んでいる人ならば誰もが
同意されるように、はっきり言って当てにならないし危なっかしい感情なのです。
こういうものを基礎に世界を構築するのは非常に危うい。
このようなレベルの「愛」をベースに構築された世界は、情念の揺らぎでいとも
簡単に破壊されてしまうことでしょう。
だからこそ人間は理性によっていろいろなおもしろみのないルールを作って生活
しているとも言えるのです。

北斗の拳」の主人公たちのストイシズムに惹かれるところはあるものの、
その殺伐とした世界の描写を見るにつけ、人間が情念的・個人的愛だけで動く
ようであればこういう世界になる可能性もある、という受け取り方もできる。
そして、その世界には感情の煌めきによる美しさはあるものの、多くの悲劇が
起こるだろうことも想像できる。

結局、世界はロマンチシズムで組み立ててはいけないのです。
いくら細部に美が宿ろうとも、です。