情念の向かう先
随分長い間、本家を更新することがなかった。
いや、本家だけではない。
分家の「日記帳」だって最近はかろうじて「週記帳」になれているかどうか、
というところだ。これだけ更新が滞っているのはもちろん仕事の多忙さや転居、
単身赴任に伴う雑事が多いのが一因ではあるが、それだけではない、と感じる。
人間には一定量の情念がある、と最近改めて思う。
情念の量はひとによって多い少ないがあるけれども、その情念のエネルギーは
いろいろな方向性、場所で使われてゆく。思えば僕がとても頻繁にブログを更新
していた頃は、僕の情念は鬱屈し行き所のない状態だったように思う。
その行き所のない情念が、屈折した形で現れたこともあったし、ブログに言葉
としてはき出す形で放出されたこともあった。
情念はいろいろな形で内部に貯まってゆく。社会から認められない悔しさ、徐々
に老いていくいらだち、家族とのすれ違い、うまく行かない現実、などなど。
そして貯まった情念はなんらかの形で吐き出さなければ、自らの体温をコント
ロールできなくなる熱中症のように心を冒す。
ひとは何らかの形で情念を吐き出さずにはおれないのだ。
僕の場合はどうか。
過去、情念はいろいろな方向に向かっていた。
僕自身、その情念をコントロールするすべを知らず、無秩序に吐き出していた
ような気がする。ブログだって今思えばそうなのかもしれない。決して悪い
吐き出し方ではなかったように思うけれども。
あれから少し歳を取り、僕も多少は大人になったようだ。
情念のほとんどの部分を形を換えて仕事に振り向けることができるように
なった。情念の対象を現実世界に向けることでネット世界に対する情念
の振り向けが大きく減ったことは間違いない。
だから、こんなに更新が滞っているのだと思う。
とはいうものの、まだまだ僕の中にはいろいろな情念が燻っていると
思うし、それを感じることもままある。だから僕は、どういう形で、この
いまだ残る燻る情念(=生きるエネルギー)を上手に昇華させられるかを
考えている。ピアノを弾くこと、運動をすること、もうひとつよい方向性
を見つけられたらいいのだが。
草花でも育ててみようか?