風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

国会答弁を見て〜政治家の頭の良さ〜

飛び石連休のなか日の今日の午後、有給休暇を取った。
部屋でなんとなく手元無沙汰なので、NHKをつけたら国会の予算委員会の中継を
やっていたので、少々拝見することにした。
内容はともかく、面白かったのは、答弁を通じて議員それぞれの「頭の良さ」が透けて
見えるように感じられたことである。これが「本当の有能さ」や「政治家としての能力」
と正の相関関係にあるかどうか、僕にはわからない。わからなくはあるが「頭が良さ
そうに見える」というのは少なくとも「有能である」と錯覚されやすいわけであるから
少なくとも本人にとってマイナスではないであろう。

ここで「誰が頭が悪そうだったか」を書き連ねるのは僕の趣味ではないので、差し控える
が、明らかに「頭が良さそう」に見えたのは、鳩山総理と原口総務大臣加藤紘一である。
思えばかつての「宏池会のプリンス」加藤紘一も歳を取ったものだが、頭脳のほうはあい
変わらず明晰である。失礼ながら他に質問していた野党議員と比較して、その明晰さと
議論の本質を突く深さは図抜けている(その”思考の深さ”がほとんどの他の議員に受け
止められていない様子もなかなか興味深かった)。そして特に印象深かったのはその頭の
良さが「議論の中身」においてという以上に「議論を進めるスキーム」において一歩時代
を先取りしようとしている点にある。
つまり、今日の質疑において、加藤は以前までの不毛な与野党論戦(言ってしまえば、
相手の言葉尻をあげつらい、感情を逆撫でして失言を誘ったり言質を奪ったりする弁論術
のテクニックに基づくもの)のスキームを自ら放擲して、お互いの存在にリスペクトを
持ちつつ事実に基づいて建設的に議論しよう、という姿勢を明確にしていた。
民主党のヤジに「罠だ!」というのもあったが)


僕は、これは加藤が猫なで声で罠を仕掛けているのでもなければ、一部で言われている
ように将来の政界再編を睨んで民主党にすり寄っているだけでもないように思う。
おそらくは頭脳明晰な加藤は、自民党の他の質問者たちのようなスキームに立って質疑を
している限り、もう自民党にも、加藤自身にも、そして日本の政治にも「未来はない」と
喝破しているに違いない。同じ議論のスキームを取ろうとする態度が、鳩山首相にも、
原口総務大臣にも見られた。これら三人が等しく「頭が良さそうに見える」ことは実に
興味深いことである。
(答弁の中で、加藤が「昨日の『誰が今のこの事態を招いたのか』というような言葉は総
理にふさわしくないから取り消せ」と要求したのに対し、鳩山首相が「谷垣総裁に対して
言った私のあの言葉は遺憾でありました」と即座に謝罪したのは大変印象深かった)


加藤が取るこの議論のスキームはなかなか厳しいものである。
つまり、このやり方だと「頭が良い人」でないと議論ができないのだ。
かつての政治家たちが行っていたように、揚げ足を取り、答えたくないことは韜晦し、
答弁書を棒読みするだけではもう駄目なのである。
単に議論に勝つ方法は弁論術やディベート術で勉強できるが、本当の中身の当否、それ
も霧につつまれた未来を賭して決定する政策はそのような「術」で決められるべきでは
ない。そうではなくて、何が本当に未来の国家国民のために良いかという本質的な観点
で争われなくてはならない。
政治家も地盤・看板・鞄・派閥で能力査定される時代が終わり、能力と頭脳で評価される
厳しい時代がそろそろ近づいているようだ。


さて「本当に頭が良い人」とはどんな人だろう?
それは、与えられた問題に誰より早く解答できる人ではない。
いくつかの選択肢を比較考量して一番妥当性の高いものを選び出せる人でもない。
僕が思うに、磁石もなく星も見えない真夜中に未開の荒野に立ったときに、正しい方向を
察知できる人である。わずかな風の流れや匂いや地面の傾斜から進むべき正しい道を
見いだせる人のことである。
さて、これら三人の政治家は「頭が良さそうに見える」だけなのだろうか?
それとも「本当に頭が良い」のだろうか?
それは、今日のこの質疑応答だけではわからない。