風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

新宿御苑 森の薪能

生まれて初めてお能を、それも薪能という形で見ることができた。
感じること多々あり、ここに記しておきたい。
実は新宿御苑薪能は昨年も行くつもりでチケットを買っていたのに生憎の雨で
流れてしまって泣く泣く払い戻しした、いわくつきの公演である。
幸い今年は快晴に恵まれたのだが、夜になると冷え込んで十分な準備をしてこなか
った僕は体の芯まで冷え切ってしまい、終演頃には指がかじかんで痺れて参った。
それでも、闇の中、深い木立を借景にかがり火に照らされる能舞台は実に美しく
夢幻の世界のようであった。


今回の演目は狂言「業平餅」と能「葵上」。
僕は狂言も生で見るのは初めてだったのだが、この「業平餅」、とても楽しかった。
もちろん台詞も昔の言葉なのだが、理解するには何ら問題なく筋も良くわかり楽し
めた。西洋の舞台芸術で言えば「オペレッタ」というところだろうか。
しかし、オペレッタと大きく違うのはその様式美で、狂言という以上滑稽物なので
あるけれども、演者の所作、演じ方、歩き方から立ち位置まで厳密な様式の中で
成立している点だ。様式の範囲内の美しさや見事さがあって、それに見惚れてしま
うのだけれど、クラシック音楽と同様に何度も同じ演目を別の舞台で見ると、様式
で定められた以外の演者の工夫によるディティールの違いなどを楽しむことができる
だろうと思った。


一方、能「葵上」は、予備知識なく見て楽しむことは僕には無理だと感じた。
昨年も演目が「葵上」だったので、檜書店から出ている「対訳で楽しむ『葵上』」を買って
読んでいたのだが、そうでなければ今回の舞台の意味を取ることは難しかったろう。
この演目は源氏物語六条御息所の生霊が光源氏正室・葵上に嫉妬から祟り、それを
小聖が祟りをとく、という非常に単純といえば単純な筋書きなのだが、単純と言えば
オペラだってそうであるように舞台芸術は筋を楽しむものではなくてそこで演じられ
ている「演技」を鑑賞するものであろう。
さて、この「葵上」であるが、退屈することなく実に集中して楽しめた。
演者が歩く様、止まる様、舞う様子、全てが美しく完璧な様式美を見せる。
様式美と言っても堅苦しいわけではなく、面のわずかな傾きや、手のわずかな必要最小
限の動きで六条御息所の嫉妬、恥じらい、悲しみ、怒り、といった感情が表される。
ギリギリまで切り詰められた所作による感情表現の美しさ!
表現を限りない様式美の中に閉じこめたという点では、クラシックの古典の楽曲に
通じるのではないか。


後半の般若の面をつけた後シテとワキ(小聖)の戦いの場面での舞には圧倒的な迫力を
感じた。そこでも大立ち回りがあるわけでもなく、後シテは一本の細い棒を持って二回
ほど打ちかかるふりをするだけで、それに対してワキは数珠を摺り合わせながら近づく
だけなのだが、見ている側には両者の激しい攻防が目の前に浮かぶのだ。
能舞台はリアルな大道具や小道具や背景もなく、全ては見る人の想像力にまかされて
いる。逆に言えばリアルな道具立てがなくてもまったく見る障害にならない、という
事実は、舞台芸術の本質は何なのかを暗示してくれている。
オペラでも思い切って象徴的な舞台(例えば新バイロイト様式と呼ばれるような演出)
こともあるのは、ひょっとして能の影響なのだろうか、と想像したりしていた。


能はわかりやすい芸術ではないが、見る側がそれなりの予備知識を持ち、自分自身が
想像の翼を広げる(つまり、観客の側はある種の積極性が求められる)ことで楽しむ
ことができる古典芸能だと思った。今回の能は三番物と呼ばれるものであったが、是非
次回は「夢幻能」を見たいものである。
こんどは寒くない能楽堂で、笑。