風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

能 〜 沈黙と静寂の芸術

東京での2年間で意義深かったことのひとつに、能を見たことが挙げられる。
能は僕に二つの思考の種子をくれた。


一つめは能を通して芸術における沈黙と様式の意味を考えさせられたこと。
台詞や囃子、謡があるものの、基本的に能は沈黙と静寂の芸術である。
喜怒哀楽の表現は最小限で、登場人物の所作は極度に様式化されている。
芸術とは「自分にしかわからないであろう言葉にできない感動」を他人に伝えようと
する矛盾した・絶望的な・不可能的な試みなのであろう。ちょうど愛の本質が絶対的
孤独(自分にしかわからないであろう自分)の中に永遠に閉じこめられている人間が、
それでも他者に繋がろうとする絶望的な試みであるのと同様の意味において。
能においては沈黙と静寂の中での様式化されたわずかな所作が大きな意味を持ち、
百万の台詞よりもさらに雄弁に「言葉にできない何か」を客席に間違いなく伝える。
何故、そんなことが可能なのだろうか。
これは、僕にとって衝撃だった。


もうひとつ、生と死について改めて考えさせられたこと。
人が死ぬ、というのはどういうことか。
自分自身にとっては生物としての終わり、であってそれ以上でもそれ以下でもない。
僕がここで問題にしているのは「他者の死」である。
他者が死ぬ、ということは他者との関係の終わりを意味するのか?
いや、意味しない、と僕は思う。
事実上、そのひとが亡くなっても、僕は彼らと心の中で会話ができ、思い出し、懐か
しみ、会話ができる。
いやそれはリアルではない。幻想なのだ、という方もおられるだろう。


では聞く。
いったいリアルとは何なのか?
幻想とは何なのか?
リアルと幻想は「本当に違うもの」なのだろうか?
リアルであれば通じ合え、幻想であれば通じ合えないのだろうか?
それこそ「幻想」そのものであって、実はそれは逆ではないのか?
能の世界では「生者の世界(リアル)」と「死者の世界」はシームレスに繋がっており、
何の違和感もなく同じ地平で扱われている。
(興味ある方は「複式夢幻能」をネット検索してみてください)
これは当時の日本人の心象風景として自然なことだったのであろう。
能ではごく自然に生者が死者の魂と会話をし、死者の魂の嘆きや苦しみに触れ、それを
理解する。本当に、ごく自然に、当たり前のように。


芸術における沈黙と様式の意味とは何か?
「他者に伝わる」とはどういうことか?
「他者の死」とは何か?
「リアル」と「幻想」は何が違うのか?
もう一度最初から考えてみようと思っている。