風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

「超訳 ニーチェの言葉」に呆れる

本屋であれこれ本を物色している時に気づいたのが「当店売り上げ第二位!」と書いて
あったハードカバーの「超訳 ニーチェの言葉」(白取 春彦翻訳)。
へぇ、何で今頃ニーチェがベストセラーに?と思い、手にとってぱらぱらと斜め読み
して仰天した。確かにニーチェのあれこれの書からピックアップした文言が切り取られて
いるのだが、どれもこれも『ポジティブシンキング・元気で前向きに生きようぜ』的な
自己啓発本向けフレーズを選択して部分引用しているのである。
本当にこれがニーチェか?と度肝を抜かれた。


言うまでもなくニーチェは、毒のある、というか毒を抜いたらニーチェではない、と
言っていい猛毒を持つ思想を展開した哲学者である。
僕は高校時代に『ツァラトゥストラかく語りき』を読んで、これは狂人の思想だ、と
思った。また、キリスト教は所詮弱者のルサンチマンが生んだ弱者の宗教だ、と口を極め
て罵ったニーチェの思想そのものが「弱者のルサンチマンの産物」と感じた。
今もその思いは全く変わっていない。


半面、ニーチェには偏執狂でなければ踏み込めない奥の奥の領域まで物を考え、展開し、
提示してみせる驚異的な洞察力があった。それこそが、ニーチェの凄さであり、意味で
あり、価値であるのだ。思想家・哲学者にはそれぞれ「ここを外したら意味がない」と
言える部分がそれぞれにあり、ニーチェ生の哲学からルサンチマンを抜いたら、それは
ニーチェではない。ルサンチマンに起因する毒を抜いて口当たりの良い自己啓発に手軽
に有用そうな文言を切り出して、それを「ニーチェの言葉」と呼んでいいのだろうか?


ロラン・バルトが『作者の死』において、テキストの作者がそのテキストにおいて何を
意味させようと意図したかはその解釈において重要ではない、と説いたのは事実だが、
そうは言うものの、この本はニーチェを殺した上に遺体を火葬にして、その灰を瓶詰め
にして「霊験あらたか」と称して売っているように思える。
そんなあざとさを感じているのは僕だけなのだろうか。