風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

正論を主張する時には

組織の中では、論理的に正しく誰からも非難されないように完璧に仕事をして
いれば評価されるというものではない。むしろ「論理的に正しい」ということに
こだわり、やたら主張する人は煙たがられ脇に追いやられる傾向がある。
僕はそれはしごく当然だと思うのだが、そういう人に限って憤懣やる方なかった
りする。
「俺は常に正しいことを言っている。なのに誰も理解しない」
と。

個人で仕事をしていればともかく、組織で仕事をする場合、その組織全体がスム
ーズに機能的に動くことは非常に重要である。マネージャーとかリーダーとかいう
存在の重要な機能の一つがそこにあるわけだが、一般社員だって当然その義務を
負うわけだ。けれども往々にして、論理が至上、と考える人たちはそれを失念
してしまう。

自分の意見に自信を持ち正当性を堂々と主張しよう、とするとき、多くの人は
過剰に意気込む。その過剰な意気込みは相手を説き伏せよう、ねじ伏せよう、
いや屈服させよう、という形で態度に表れることが多い。
それこそがくせ者なのだ。
人は誰だって、説き伏せられたり、ねじ伏せられたり、いわんや屈服させられる
のは屈辱だし嫌なのだ。
「正しいことを主張する時ほど低姿勢で丁寧なほうが良い」のである。
本当は相手が自然に気づくように仕向けるのが一番いい。
本人が「自分は元からそう思っていたのだ」と思ってくれれば最高だ。
それで目的は達せられる。組織の誰もプライドを傷つけられず、惨めな思いも
せず、機能が改善されるわけだから。

ところがそうとわかっていても、過剰な意気込みを見せずにいられない人たち
もいる。その多くは、劣等感に苛まれた人たちだ。
本当の自信がない時、人は自分を大きく見せようとする。
その過剰な意気込みは、難しいカタカナ言葉や、大仰な身振りや、挑発的で
威圧的な視線などに現れるのだが、それは逆に相手を身構えさせ、聞く耳
閉じさせ、結果として説得を難しくする。
そして、彼らはいつも嘆くのだ。
「誰も俺の正論をわかってくれない」と。

「正しいことは必然的に理解されるべきだ」というナイーブな思いこみを人々が
捨てられないのはいったい何故なのだろう。「正しいことを人々に機嫌良く受け
入れてもらうためのアプローチ法」はもっと知られていいのではないだろうか。