風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

様式を超えるもの〜フェルメール展を見て

音楽にしても絵画にしても、掛け値なしに凄いものに接したときには魂が震える。
東京都美術館で開催されている「フェルメール展」はそんな感動を僕に与えて
くれた。

この展覧会ではフェルメールの作品7点(うち日本で初公開の作品5点)とともに
フェルメールと同世代のオランダ・デルフト派の有名画家の作品32点が展示
されている。フェルメールについてはほぼ1年前のエントリ「牛乳を注ぐ女」
にも書いた通り、僕が以前から魅力を感じている画家であったわけだが、今回
まとめて7点もの作品をゆっくり見ることができて、冒頭に書いたとおりの
感想を持ったわけだ。

この展覧会は面白い流れになっていて、24点のデルフト派の作品の次に
集中的に7点のフェルメール作品が並べられている。この並べ方のお陰で、
窓から柔らかな光が差し込んでいたり、床に遠近感を感じさせるタイルが
敷きつめられていたり、日常のありふれた様子を描く様式はフェルメール
独自のものではなく、当時のデルフト派に共通するものだったことがわかる。
このデルフト派の絵を詳細に見てゆくと、確かに絵としてはどれも素晴らしい
作品なのだが、どこか本当に自然なリアルさがない、と感じるものばかりなのだ。
細部の描写など、場合によってはフェルメールを凌駕すると思える作品もある
のに、フェルメールの絵が放射している圧倒的な空気感や自然なリアル感は
何故か不思議と醸し出されない。
これはいったいどうしてなのだろう?

そういう疑問を持ちつつ子細に絵をみてゆくと面白いことに気づいた。
一つは、デルフト派のいろいろな画家を見ると、例えば崩れかけた煉瓦の
様子、とか、人の描き方、とかが、どこか「記号的」なのである。
記号的とはつまり「朽ちた煉瓦はこういう描き方をするもの」とか「人物
の肌はこのように描くもの」といったある種の常識に従ったもの、と言って
もよい。当時、絵画の描き方マニュアルがあった、とは思わないけれども
「煉瓦としっくいの交互のパターンの中にだいたいこんな感じで剥がれと
欠けを汚れを入れれば古びた煉瓦壁っぽく見える」という手法を疑いなく
やっているように思えるのだ。しかしながらそうやって、記号的描写を
重ねてゆくと絵は本当の自然なリアルさから遠のいてしまう。

では絵画はリアルでなければいけないのか?と問われれば、必ずしもそう
ではない、と言わざるをえないけれども、フェルメールは恐らく徹底的に彼に
とっての「自然なリアリズム」を追求したのだと僕は信じる。
例えば「小路」の中央のウグイス色の木戸下のしっくい壁の汚れ方を見てみよう。
これは「デルフト派の様式」で描かれたのではなく、フェルメール自身が汚れた
しっくい壁をどう描けば自然かつリアルに見えるのか、徹底的に観察し、悩み、
考え抜いた末のものだと思う。
同じ事はこの絵で言えば煉瓦の壁の色合いやひびや欠けについても言えるし、
他のどの絵の細部についても言えるのだ。
フェルメールは、自然なリアルさを表現するために、敢えて細部をべた塗り
したり省略したりもしている。このあたりはデルフト派の絵の多くが、過剰な
細部の描き込みによってかえって自然なリアルさから離れてしまっているのと
とても対照的なのだ。

絵としてうまく出来ている、とか美しい、ということと、自然なリアルさを
追い求めることは別次元のことだろう。そして、うまく絵を描くには様式に
従い様式の範囲内で仕事を進めるほうがずっと効率的だし沢山描けるはずだ。
フェルメールのような仕事の仕方ではそれほど多くの絵を描くことはできな
かっただろうし、お金を儲ける、という次元で言えば効率は悪かったかも
しれない。しかし、このこだわり故にフェルメールの芸術は他を圧倒する
ものになったのではないか。

音楽でもそうだけれども、様式に頼った瞬間、芸術は感動から遠のく。
様式だけでは快さは生み出せても、感動を生み出すことは出来ない。
真の感動は様式を超えたところに生み出される。
様式を超えて表現しようとするフェルメールの悪戦苦闘が、この圧倒的で自然
なリアルさを醸し出していると僕は信じる。

9月29日追記:
書きそびれてしまったのだが、もう一つ、フェルメールの圧倒的なリアル感を
生み出している一因にハーフトーンの描写の細やかさがあると思う。
他の画家に比べてフェルメールは最明部と最暗部のコントラストの力に頼って
いないように感じるのだ。他のデルフト派の画家と比較するとハーフトーン
部分の微妙なグラデーションの多彩さ、繊細な描写には明らかに大きな差がある。

フェルメール「小路」

フェルメール展ホームページ