風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

本を読むこと

「awayさんは読書家ですね」と言われてびっくりした。
どこかで筒井康隆も同じ事を書いていたと記憶するが、僕にとっての「読書家」
の定義は、自宅に数万冊の蔵書を持っていて、なおかつ毎月数十冊の本を買って
読み続けている人であるからだ。
そういう意味で僕はまったく読書家ではない。

「読書が趣味なんですよね」と言われることもある。
なるほどそう見えるのかなぁとも思うが、僕は読書を「趣味」と呼ぶのには抵抗
を感じる。僕にとっては読書は『生きること』と同義だ。

生きているといろいろなことに気づき、目を見開かされることがある。
それは他人との交流や、自らの気づきによってもたらされるものももちろんある。
しかし読書が僕にもたらしてくれたものは、そういった「経験」や「自意識が生み
出したもの」よりもはるかに多かった。
だから「本には興味がない」「読書なんて意味がない」と言い切れる人がどんな
精神世界を生きているのか、正直言うと僕自身、うまく想像ができないのだ。
(それはひとと向かい合う時に僕自身の弱点として立ち現れることもある)

「哲学や思想なんて意味がない」「科学は実生活に無関係だから興味ない」という
言葉もよく聞く。
そうなんだろうか。
僕にとってはフッサール現象学量子力学を知ったことは、世界観の根幹を揺る
がされる出来事だった。フランクルの実存哲学には心を救われたし、ドストエフ
スキーには存在の根っこを激しく揺さぶられた。
そういう経験は、身のまわりの人達と喋ったり、メールをやりとりしたり、ネット
でブログを読んだり、テレビや映画を見たりする中では決して得られなかった。
そういったものからは感情的な安らぎやインティメイトな喜びは得られても、非常
に高く深い思考レベルでの「気づき」や「覚醒」は得られない。

僕が思うのは、なんだかんだ言っても(文字を書くようになってからの)人類数千年
の叡智の殆どは現状「書物」の形で保存されている、ということだ。
そして、今現存している「名著」「古典」と呼ばれている書籍は歴史のフィルター
をくぐり抜けているだけに「ものすごくスペシャルな何か」を秘めていて、自分を
根幹から揺さぶり、ノックアウトしてくれる何かを探すにはとても効率が良いのだ。
例えば先日から読んでいたマルクス・アウレリウスの「自省録」
これなど約2000年前の本だけれど、人間の悩み、苦しみは結局何一つ変わっていない
ことに改めて気づかされた。そして驚くのはこの「自省録」のベースにあるストア
哲学の基本的な考え方は20世紀のフッサール現象学、ひいては今、鬱病治療で
有効な手法とされている論理療法(認知療法)にも通底しているのだ。

何千年も人間はだいたい同じようなことに悩み、同じようなことに苦しんできている。
自らの力で一から悩み、苦しみに対峙するのもチャレンジャー精神でいいのだろう
けれど、そういうとき本はきっと何かを与えてくれる。
だからこそ、僕にとっては読書は「趣味」ではあり得ない。
読書は、生きることそのものだ。