風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

演歌っぽいショパンでもいいじゃないか

あれはカールスルーエだったか、シュツッツガルトだったか、、もう記憶が
定かではないのだけれど、僕はその時、南ドイツの小都市に滞在していた。
日曜日、ご存じのひとも多いと思うけれど、あちらはほとんどの商店が店を
閉めてしまい、僕のような一時滞在者は行き場所がなくなり手持ち無沙汰に
なる。仕方なしにホテルにあるパンフレット類を眺めていたのだが、そこに
近所でピアノのミニコンサートが行われる、と書いてあった。
入場は無料らしい。
僕は暇つぶしに行ってみることにした。

ホテルから地図を見ながら歩いてゆくと学校のような建物に行き当たった。
ここがその会場らしい。
僕はドイツ語はよくわからないのだけれど、音楽学校の生徒達による発表会の
ような感じだった。
聴衆は数十人。
窓から柔らかな陽光が差し込むヨーロッパらしい部屋でのインティメイトな
雰囲気の演奏会。

いかにもドイツ人らしい不器用でごつごつしたベートーヴェンや分厚いハー
モニーのブラームスなどが続いた後、韓国の女学生が出てきてショパン
バラード1番を弾きはじめた。
最初の数小節を聞いただけで僕はびっくりした。
「このショパンは韓国の演歌じゃないか」と ^^;

いや、同じようなことは実は日本でも多々あるのだ。
ショパンに限らず、モーツァルトでもシューベルトでも、演歌のように小節
の効いた演奏を耳にすることは多い。クラシック音楽の生命とも言える構造
を示すよりも一つ一つのメロディの細部、その歌わせ方、その単独のフレーズ
の美しさを丁寧に提示することに集中し、そこに命を賭けたような演奏。
それは、日本におけるクラシック音楽の演奏の一つのパターンとも思える。

アカデミックな楽壇においてはそれを非難する声は大きい。
曰く「本場の音楽とかけ離れている」
曰く「ヨーロッパの文化・精神を全く理解していない」
しかし、と僕は思うのだ。
「別にいいじゃないの」と。

ある民族の文化が他の民族の文化と接触し受容される時、そこには必ず
「変容」がある。
大きな例では仏教を考えてみたらいい。
卑近な例では料理だってそうだ。
どれも、本国のオリジナルの形が最初は輸入されたものの、日本の文化の底部
を脈々と流れる通奏低音の力に押し流され「日本流」に変質してから受容され
ている。この変質なくして人口に膾炙することはあり得なかったと言ってよい。

料理のプロフェッショナルたちは、中国やフランスからやってきた外来料理を
日本人の口に合うようにして提供し、人々に受容された。外国において俳句
Haiku)がそうであるように西洋音楽(クラシック)もそうであってよいのだ。
もちろん、オリジナルそのものを紹介しそれを知って貰う、という仕事もあり
それに従事する伝道師的役割の音楽家もあってもいいだろう。
しかし、日本人ならば日本人の口に合うような受容しやすい解釈の演奏を堂々と
すればよいのだ。日本のクラシック音楽家もそういう次元でものを考えても良い
のではないか。もちろん、受容する聴衆の側もいたずらに「本場っぽさ」を
称揚するような、西洋コンプレックスに満ちた態度は改める必要があるだろうが。

もちろん、日本人受けする解釈の演奏が世界で通用するとは限らない。
どんなに美味しくても洋食屋の料理ではフランス料理コンテストで一位が取れ
ないようなものだ。しかし洋食屋の世界にはフランス料理にはない文化の混淆
をベースにした独自の美味がある。作曲のほうでは武満徹のように独自の和洋
混淆の世界を提示することに成功し、世界で認められた人も出てきた。
本当に良いものは文化の壁を突き抜ける。
演奏界でも日本独自の色を出しつつ世界にも認められる人がもっと出てくること
を願ってやまない。