風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

「結局、自分がそうしたいから」

何かを決断する。
それも楽しくない、むしろ苦しい決断を。
そういう時、
『結局、自分が「そうしたい」からそう決断したわけでしょ。
 「したいことをしてる」だけだから所詮「自分のため」だよ』
というようなことを言う人がいる。
今日はそういう考え方に対して僕の考えを述べてみたい。

人が何かを決めるときは思考の最終段階で必ず「自分が、そう決断する」という
形をとる。そして「自分が、そう決断する」の前段階には「自分がいくつかの
選択肢の中からその選択肢を選ぶ」という部分がある。
それは『選択』ではあるが実のところ『選好』ではない。
それなのに、何故それがあたかも『選好』であるように言われることがあるのか?

これは日本語の問題だと思う。
「そうしたい」の「したい」には「行動を実行する『意志』の表明」の場合と
「好きな行動を取りたいという『欲望』の表明」の二つの意味がある。
例をあげると前者は「我々は無条件降伏を受け入れることにしたい」であり、
後者は「僕はダンスをしたい」だ。
前者は『選択』であり後者は『選好』だ。
同じ「したい」でもそこには意味において大きな違いがある。

人生には、自分がとてもイヤでも、苦しくても決断しなくてもいけないことが
ある。例えば部下を叱責することだってそうだ。
「仲良しクラブ」でいられればその方が毎日職場だって楽しいし、いい雰囲気で
いられる。それでも叱責するのは、それは長期的にみて相手にとっても、もち
ろんグループ全体にとってもプラスになるはず、という判断があるからだ。
人を叱責するのが好きな人(サディスト?)は別として、例えば僕などにとって
はそれは非常にイヤで辛いことだ。
それでも僕は必要とあれば叱責することに躊躇はしない。
それが本人にとって、ひいてはグループ全体にとって「将来的に良いこと」
ならば、嫌われることを覚悟で僕はやる。
そういう時に、最初のようなことを耳にすると本当に腹が立つ。

「結局、自分がそうしたいから」という意味のスリカエは「人は誰も自分の欲望
を優先して生きているはずだ(私がそうしているように)。だからあなただって
そうに違いない」という悪意をその裏側に隠している。言い換えれば「鬱陶しい
ヤツがいる、コイツを自分たちと同じレベルまで引きずり下ろしてやろう」と
いう嫉妬の意味も含んでいる、と僕は思う。
こういうことを言う人は、他者からのプラスの評価に飢えている人に多い。

苦しい決断をする場合、決断をする人の心のどこかに一種のヒロイズムや、苦渋
の決断をする自分への陶酔感があることを、僕は否定しない。いや、むしろそう
いったものはある方が健全だし、それがあるからこそ苦しい決断だってできるの
だろうと思う。
しかし、そんなことよりも何よりも重要なことは「決断した人の苦しさ」でも「辛さ」
でもなく「決断の中身」なのだ。
「決断の中身」が長期的、大局的に見てまっとうで正しい方向の事柄なのか?
問われるべきはそこであり、その意味からもこのようなスリカエには何も意味が
ないと思うのだが。