風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

分析的であること

山田太一の「逃げていく街」の「音、映像そして活字」より。

【引用始まり】 ---
(映画監督のベルトルッチの言葉として)
ルノワールも言っているように、ある映画が何を意味するのか、だれにも
分かりはしない。作り終えた後に発見するのだ」
「ぼくが求める観客とは、映画の行う無意識の作業に身を委ね、それに参加
できる人たちだ」
「ぼくはいろいろと話しあったり、変更や忠告を受けいれる心構えをしている」
「時には自分から対立意見を求めることもある」
「ぼくはドラマ的かつイデオロギー的牢獄をいったん作りあげると、俳優たち
にそこから逃げ出す自由を認める」

いたいたしいほど分析的になるまいとし、無意識を呼びこもうとし、他者を
受け入れようとしているが、尚かつ私たちがベルトルッチの作品から受ける
印象は、それほど開かれたものではない。「中国人はとても実際的な人たち
だから、過度の自己分析には、ほとんど陥らないのだ」。
しかし、ベルトルッチは依然として分析的意識的だ。
そして、そのような自分から、なんとか飛び立とうとしてる。
このような葛藤のない映画作家を私はほとんど信用できない。
少なくとも好きにはなれない。
【引用終わり】 ---

この部分、とても共感できるフレーズだ。
ベルトルッチという人の映画は「ラスト・エンペラー」以外は僕は見たことが
ないけど、本質的に分析的意識的な自分が、なんとか矮小にならないように
恐ろしいほど葛藤している姿が目に浮かぶ。
分析的で意識的であることは「矮小」であることであり、そこで煩悶しなければ
「ずっと小さい世界に住んだまま」なのだ。
小さい世界の中で閉じたものは、普遍性と歴史性を持ち得ない。
したがって、その部分の葛藤がなければ芸術家たり得ないと思う。

ベルトルッチが、そして山田太一が言いたいことが、痛いほど分かる。

逃げていく街

逃げていく街