風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

沖縄紀行(3) 一人旅は音楽のようだ

今回の旅行は僕がこれまでにほとんどしたことのない一人旅に挑戦したわけだけれど、
一つ気がついたことがある。一人旅をすることは、音楽を聴くことに似ている、という
ことだ。

一人旅はもっと寂しいかと思っていた。これまでの一人での出張がそうであったから。
しかし、今回の旅行はこれまでの旅行とは違っていた。

たとえば僕が音楽に深く没入するとき、脳の一部が音楽に陶酔し枠溺しながらも、脳の
もう一方の深いところで別のことを考えていることがある。たとえばシューベルト
後期ソナタを聴きながら、モーツァルトのレクイエムを聴きながら、音楽のすばらしさ
に酔いしれつつも、一方で別の思索にふけっていたりする。
吉田秀和がその処女作である「ロベルト・シューマン」にこう書き記しているように。

いってみれば、音楽は、ほとんど数学的思考の厳密さと透明をもちながら、心情と感覚の世界を通じて、陶酔と忘我を実現してくれるものだ。音楽を注意ぶかくきくとき、ぼくらの精神はいつもよりはるかに目覚めているが、同時に目覚めていればいるほど、ぼくらの陶酔はふかくて、全身的だ。

それと同様のことが今回、起きたのだった。
沖縄の紺碧の海を、色鮮やかなハイビスカスを、渦巻き垂れ込める黒い雲と驟雨を感じ
ながら、脳の一方で僕は戦争について、人間の本能について、音楽について考え続けた。

それは「ぼんやりとなにも考えずにリフレッシュ」とか「日常を離れてゆったりと時間
を過ごす」こととは違っている。時間があればあるだけ、僕は外界の物事に気持ちを
取られつつも、それについて、あるいはそれとはまるで関係ない事柄についてあれこれ
考えてしまう。
どうして僕は、なにも考えないということができないのだろう。

「楽しかった」とか「おもしろかった」というのとは少し違う経験だった。
一人になることで、僕の感覚は鋭敏になる。アンテナがすっと伸びてふだん気づかない
ようなことをキャッチする。連れがいるとどうしてもその連れとのコミュニケーション
というファクターが入るから、外界に向けたアンテナの働きは弱まっているのだ。

一人旅をすることは、自分のアンテナを研ぎ澄ますことでもある。
いずれまた一人旅に出ようと思う。
そして、そこにある、あるいはそこにない何かを感じ考えてみたいと思う。