風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

白洲次郎

白洲次郎、という人物には以前から多少興味があった。
たしかどこかの特集本でTシャツにGパン姿の白洲次郎の写真が表紙だったのも記憶して
いる。白洲正子の夫、ということでそれにも興味を惹かれたというのもある。
そんな風にやや中途半端な距離感で白洲次郎を捉えていたのだが、思い立って何冊か本を
読んでみた。

ああ、なるほどなぁ、というのが読後感であり感想だ。
一言で言うと、白洲次郎、という人物はある面で「硬派な理想の男」なのだと思う。もっ
とも、最近の若い人はどう思うかわかりませんが、明治生まれの祖父が「男はこう生きね
ばならん」と幼少期、僕に語っていた「男の生き様」と面白いほど合致している。
たとえば勢古浩爾の「白洲次郎的」から引用すると、

首尾一貫しない人生のなかで、この男はどこまでも首尾一貫している。
正義感が強く、曲がったことがきらいで、ウソをつかない。
虎の威を借る尊大な人間を蛇蝎のごとくきらい、それでいて
下積みの人間や女性や子供には無類にやさしい

この常識的な表現からくみ取れるのは「至極まっとうな硬派な男」というところだろうか。
逆にこの世で本当に「至極まっとうに生きる」ことがいかに難しいか、ということだろう。
白洲次郎の生き方のベースは、英国留学中に英国紳士の哲学に触れたことにあるようだ。
彼の口癖は「プリンシプル(過去の僕の記事「現実主義」でも触れた言葉ですが)で、
プリンシプルを持たず生きるということをひどく嫌ったという。この点は確かに日本的
ではないかもしれない。

けれども。
勢古も書いているように、白洲次郎にはわずかばかりの「過剰さ」がつきまとう。
それは彼が「プリンシプル」を貫くために必要な過剰さだったのかもしれないのだが、
僕はこの「過剰さ」にわずかな戸惑いを覚える。もっと柔らかな、かつ、したたかな
プリンシプルの貫き方はあり得ないのだろうか?と。

あるはずだ、と僕は思っている。
静謐の中で筋を通して生きる無名の人々がきっといるはずだ、と。
彼らは、白洲次郎のように武勇伝を作ることはないけれども、密やかに、しかし、毅然
として自分のプリンシプルを守り貫いて黙々と生きている。
そう信じている。

「過剰さ」は武勇伝を生み、それ故に存在が人口に膾炙してゆくこととなる。
反面その過剰さによって、微少な何がが失われ何かが欠けてしまう。
そのわずかばかりの過剰さが何とも言えず惜しい。
皆が皆「日本で一番格好いい男」と褒めそやすけれども、僕はそう思うのです。

風の男 白洲次郎 (新潮文庫)

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白洲次郎的 (新書y)

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