風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

自由主義が見落としたもの

「他人に迷惑をかけなければ、個人には行動の自由がある(何をしてもいい)」
「価値観はひとそれぞれ多様なものだ。お互いにそれを黙って尊重するだけだ」
これらは現在社会においては「ごく当たり前」と受け止める人が多いのでは
ないだろうか?
それぐらい『選択の自由』と『価値相対主義』は普遍的と思われている。

ほんとうにそうなのだろうか?
では、もしこれが正しいとしたら「援助交際をやめなさい」と少女に言える
根拠はいったいどこにあるのだろう?(事実、ある社会学者は「根拠はない
から、誰も止められない」と言った。悪いがこの男、馬鹿だと思った。)

実はこの「個人」という概念が、くせ者なのだ。
人はみな、共同体と歴史の中で生きており、そこからは逃れられない。
大きくは国家、宗教、地域、小さくは家族、仲間、同僚、などなど。
共同体の中で歴史の一部として生きていることで、すでに自由主義者たちが
考えるような「個人の自由な選択」など幻想なのだ。

自分だけの純粋な価値観で自由に判断して生きられる、などというのは幻想
にすぎない。実際、人間が何かを決めて行動するとき、自分に密接した共同
体の価値観や周りの存在からの圧力、そして歴史の力を無視して、純粋に
自分の好きなように判断する、などできはしないのだ。人の意志決定は、
その人を取り巻くさまざまな関係構造の中でなされる。
それは「会社の言うことに従う」とか「親の言うことに従う」といった底の
浅いレベルの話ではない。深く深く刷り込まれた潜在意識レベルを含めると、
人は、周りの共同体に実に強く拘束された存在なのだ。

「価値」も全く同じだ。
ある共同体がもつ価値観。それに全面的に服従するかどうかは別にしても、
それを完全に無視しては人は生きられない。ある場合はそれは民族として
の血のレベルで、ある場合は宗教的共同体としてのレベルで、ある場合は
血のつながりという逃げられない共同体の黙契として、心の奥深くに沈む
価値観のくびきからは人はどうやっても逃れられない。
何故なら、人はその共同体から「承認されること」を心の奥底で強く求めて
生きているのだから。

自由主義が見落としていたものは、この共同体の中で構造的、有機的に
つながった(つながらざるを得ない)歴史的でナラティブ(物語的)な
人間という存在だった。個人とは、決して真空を無秩序に飛び回る原子
(サンデルはこのように現実から乖離した理想化された個人を「負荷なき
自我」と呼んだ)ではない。むしろ、現実は隣合う分子の電気的な力に
常時左右される、満員電車のようにぎっしり詰まった固体分子のほうが
ずっと実状に近い。

従って(ある意味、残念なことに)「善」とか「正しいこと」は、個人の
主観や、直感や、何とか主義の教条やら、絶対者の裁きのような形では
決まらない。共同体のくびきの中で、お互いの窮屈な関係の中での窮屈な
すりあわせの中で、歴史や常識を参照しながら決まるのだ。
鬱陶しい話ではあるけれど、そう考えて初めて我々は「援助交際はいけ
ないことだ」と少女に告げることができる。「あなたは社会のくびきから
逃れられない。その行いはあなたに繋がる家族という、社会という共同体
のありように害を及ぼすからだ」と。

バーリンは「自由」を「積極的自由」と「消極的自由」に分けた。
「消極的自由」とは、圧政や屈従、専制からの脱却、人がひどい差別と弾圧
を受けず、ささやかに慎ましく生きられる自由、という意味だ。
「積極的自由」とは、まさに今のリベラリストが言う、自分のしたいこと
をするのに何者にも邪魔をされない権利、というもの。
バーリンは「消極的自由」は達成されなくてはいけないものだが、「積極的
自由」は注意しないと危ない、と述べている。悪くすると(今のアメリカの
ように)イデオロギーにすらなりうる、と。

ではなぜ、ありもしない幻想の「積極的自由」が「人間の当然の権利」と
考えられるようになったのか?
これについては、長くなるのでやめます。
いずれ別記事として書くかもしれませんが、記事を待てない方は、以下の
参考図書をお読み下さい。佐伯氏はウィトゲンシュタインの「論理哲学
論考」の誤読がその一因だ、と言ってますが(本当かな?笑)。

参考図書:
「自由とは何か」      佐伯啓思 著
自由主義の再検討」    藤原保信 著
「自己決定権は幻想である」 小松美彦 著
「美徳なき時代」      A・マッキンタイア 著