風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

選択の自由と強者の論理

小林和之という人の書いた「『おろかもの』の正義論」という本を読
んでいたら面白いフレーズに行き当たり、ううむと考えてしまった。

この本、面白い考えが種々書かれていて刺激的だ。
例えば死刑廃止論に関して「犯人が生きていることが許せない、と思う
被害者家族の気持ちは無視して良いのか?」とか「自動車の存在を認め
るということは、利便性と引き替えに社会が毎年数千人を人身御供に
差し出すことだ」など。
ここだけ、取り出すと著者はエキセントリックな変人、と思われるかも
しれませんが、内容はしごくまっとうで深いものを含んでいます。
ちなみに大阪大学の先生だそうです。

さて、僕が面白いと思ったのは次の部分。
「選択の自由」に潜む問題について、だ。

選択肢の意味を可能な限り明瞭に示すことに成功しても、その意味をより
深くより遠くまで見通して、自分に有利な選択肢を選ぶことができるのは
頭のいい人間だろう。恐ろしい結果をもたらしうる選択肢を選ぶことが
できるのは、勇気のある人間だろう。安易な選択の誘惑に負けずに、苦痛
を伴う選択肢を選ぶことができるのは、固い意志をもった人間だろう。
           (中略)
だがすべての人が強くなれるのだろうか。
足が不自由な人に、”速く走れ”と要求するのは無茶だろう。
           (中略)
意志の強さや頭の良さ、ひょっとして心の正しさについてさえ、同じ事が
いえないだろうか。強くなれ、といわれてもどうしようもない人達は、
はたしていないのだろうか。

自由が何より大切、社会に必要なのは機会平等と選択の自由で、後は
競争原理に任せれば良い、という考えかたは、70年代にノズィック、
ハイエクらの政治倫理哲学、フリードマンの経済学をベースに成立し、
レーガン政権から現在のネオコンに繋がる「新自由主義」の基本理念
だけれど、これに対する批判は主として経済面での貧富の拡大や地球
環境問題等からいろいろ試みられている(僕自身はパラダイムとして
もっと深い問題を含んでいると思っています。いずれこちらで書き
ます)

小林氏は、選択の自由の拡大が、経済面のみならず社会や人間に何を
もたらすのかという点を問うている。つまり選択の自由があっても、
正しい選択ができるのは、結局「精神的強者」だけではないのか?
選択の自由は一見公平なようで、実は精神的強者の論理では?という
ものだ。

僕の理解するところ、現在の日本では、既に精神的規範と呼ぶべきもの
がほとんど崩壊している。かろうじて法律だけが社会規範として通用
しており、道徳も、倫理観も、宗教も、規範としては有効に機能して
おらず、ほぼ完全な自由、と呼んでも過言ではない。
言ってみれば、理想的な精神の「新自由主義市場」と呼べる状況だ。

この規範のなさ、選択の自由は、人間にとって素晴らしいことなのだろ
うか?正しい選択とは何か、という問題はひとまず置いておいて、完全
な選択の自由は精神的強者以外には、迷いと苦しみと混迷をもたらす
可能性も否定できない。

とにかく、僕にも、今の日本の「新自由主義的」精神風土が素晴らしい
とは思えないのだ。もし素晴らしい世界なら、どうしてこんなに心が
辛そうな人達で溢れているのでしょう?
そういう人達を
「あなた自身がした選択じゃないか。苦しむのは自己責任だ。」
「あなたがたは、心が強くないからダメなのだ」
の一言で、切り捨ててよいものではないはずだ。

「おろかもの」の正義論

「おろかもの」の正義論