風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

それでも人生にイエスと言う

僕には、不治の病に冒されている友人がいる。
積極的治療を諦めるかどうか決断するように、医師から示唆されそうに
なっている状況の友人が。

彼は、
「自分はもうすぐ死んでゆくのだ。」
「自分が生きている意味が、生まれてきた意味がわからない」
と周りの人に必死で話しかけるのだが、周りの人はその内容の重さ
にどう対応してよいかわからず、「どうかお大事に」とか「気持ちを
ラクに持って元気出してくださいね」といった彼にとっては『気休め』
しか言ってくれないか、あるいは黙り込んで話題をそらしてしまう。

僕は彼に対して、気休めを言わないことにした。
彼が近いうちに死んでゆくことを認めた上で、それでもあなたの人生
には意味があるのだと思う、と対話することにしたのだ。
こういう姿勢を取ることは僕にとって辛いことであるけれども、この
姿勢は、実のところ「生きている意味」に直結していると僕は考える。

だが僕も、最後までこの姿勢を貫き通せるかわからない。
「自分はもう死ぬのだから自分の好きなようにする」と言ったりする
彼との対話を、ある時点で愛想をつかして投げ出すかもしれない。
その可能性は皆無ではない、と思っている。
一度は引き受けておきながら、投げ出すというのは残酷なことだろう。
もし、そうした時にはさぞ僕は心が痛み、自分を責めるだろう。
しかし、そういうリスクがあっても、こういう形で彼を引き受けること
にしたのは、僕にとって精一杯の最善と思われる決断なのだ。

ヴィクトール・フランクル、という人がいる。
ナチス強制収容所に送られ、ガス室送りの選別でかろうじて「生か
しておく」ほうに選ばれ、過酷な死の強制労働を生き抜いた経験を、
名著『夜と霧』にまとめた臨床心理学者だ。
彼は「それでも人生にイエスという」という本でこう書いている。

人生とは『問い』を人間に投げかけ続ける存在だ。
「何の為に生きているのか?」と我々が問いかけても、何も答えは返っ
てこない。それは逆で人生が「あなたは次の瞬間、どう生きるのか?」
と我々に問いかけている。だから、我々はその瞬間瞬間、最善と思わ
れることを決断して生きるしかない、と。過酷な体験を通してフラン
クルが得たものは、まさにこの鋼のような実存思想だったのだ。

終わったことは神様でも取り戻すことはできない。
どんなに心が痛くても、現実を、過去をきちんと見つめることは大切
だしやらなければいけない。しかし幼女を惨殺した少年にも、村人を
虐殺した兵士にも『これからの人生』はあるのです
何より大切なことは、『この瞬間』であり『これから』をどう生きるか
なのだ。

『あなたは、この瞬間、そしてこれから、どう生きるのですか?』
人生のほうが、我々にそう、問いかけているのです。
それでも人生にイエスと言うの画像
僕にとても大切なことを教えてくれた本です。

それでも人生にイエスと言う

それでも人生にイエスと言う