風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

ローマ人の物語

塩野七生という人については、何冊か本を読んで、関心と反感とが
混ざったような感情を持っていた時期があったのだけれど、周りの
人がとてもいい、面白いというので、いよいよ「ローマ人の物語
を読み始めた。

この人の本は、どれも語り口がうまく、文章が明確で分かりやすい
のでとても読みやすい。博学で、かつ、明晰で論理的な頭脳を持って
いる人であることは確かだ。さらに確固とした生きるスタイルを持
っていることも伝わってくる。

この「ローマ人の物語」を読んでいてもそれは痛感する。
そして、短いびしっとした警句を作ってさりげなく挿入する能力。
これが、惚れ惚れするほど素晴らしい。
たとえばこんな文章、どうです?
素晴らしいでしょう?

「民主政体を機能させるのに、民主主義者である必要はない。」
ペリクレスは、アテネの名門貴族に生れ、性格も真の意味で貴族的
 であり、それゆえにリベラルな思考法の持ち主であった」
「自由と秩序の両立は、人類に与えられた永遠の課題の一つである。
 自由がないところに発展はないし、秩序のないところでは発展も
 永続できない。」

しかし反面、どうしても拭えない違和感、のようなものがある。
塩野女史の描きだすローマの歴史の事象は、あまりに整然としていて
明確な理由付けがなされている。歴史において事象の因果関係はこれ
ほど明確ではないはずだ、という思いがどうしても消えないのだ。
最初からそんな風に、ふらふら余計なことを考えながら読んでいると、
こういう文章にいき当たった。
それで、ああそうか、そういうことか、と思った。

だが、確実な史料の裏づけがなければとりあげることの許されない
学者や研究者とちがって、私たちはシロウトである。シロウトには、
推測や想像も許されるという自由がある。

つまり、女史は歴史を描くというスタイルを取ってはいるけれど、
歴史は、あくまで女史の言いたいことを組み立てる材料にすぎず、
女史がこの本で述べたいことは、ローマの実際の歴史以上に自分の
言いたいこと(史観や政治観や人生観)なのだろう。
こういうやり方は歴史小説や時代小説でよく行われる手法だ。
もちろん、いい加減な嘘の史実をでっち上げてそれでもって自分の
言いたいことを述べているわけではないから、非難する筋合いの
ものではない。

しかし、僕の違和感は、依然消えない。
人間の歴史というのは、どう考えても因果関係がここまで明確では
ないはずだ。曖昧さ、意外さ、どうしようもない偶然や理解不能
部分に左右される所に、歴史や人間の本質があると思うのだが。

例えば、司馬遼太郎の場合、塩野女史に比べると、遙かにそういう
部分へ目配りが行き届いていた、と感じる。目配りしているが故に、
主張なり史観なりが断定口調で述べられていないので、メリハリが
ない、と思う方もいらっしゃるのかもしれないが。

まぁそういうことで、塩野女史の描く歴史は、不確実さ、偶然性、
曖昧さ、不可知性をも包含する「大きさ」にいささか欠けている
ように思うのだ。そしてそれは女史の書くエッセイにも共通する
特徴だ、と言うと、言い過ぎなんでしょうかね?