「いい男」試論
「いい男」の条件って何だろう?
僕の偏見に満ちた判断基準に「いい男」はある程度知的だ、という
のがある。
なに?んなことはなかろう!?。
例えばヘミングウェイの「老人と海」の漁師のじいさんが知的だって
言うのかい?。読み書きだってできないかもしれないけど、あれは
最高の男だぜ!などというツッコミが入るのは承知の上である、笑
ここでの「知的」とは「自分の頭で考えることができる」と言いか
えてもいい。そもそも「いい男」は人格が陶冶されていないと話に
ならない、というところが、僕のスタート点。で、どうすれば人格
が陶冶されるか、というと、社会経験、他人との接触経験も大事だ
けれど、それ以上にその経験をベースにして「自分の頭で考える」
ことがもっと重要なのじゃないだろうか?
ところで、あれこれ自分の頭で考える、というのは、なかなかどう
して辛気くさいのである。こういう辛気くさいことが出来るように
なるにはそれなりの訓練がいる。結局、一番その訓練になるのは
結局、勉強であったり、読書であったり、知的活動であったりする
のではないか?
それが、そんな辛気くさいことをする暇があったら、バラエティ番組
を見ている方が宜しい、という風になると、これでは悲しいことに、
なかなかいい男にはなれないのである。
したがって、いい男はバラエティ番組ばかり見てはならん、というの
が僕の結論。(今日は我ながら暴論ですなぁ。いや別に酔ってるわけ
じゃないのですが)。
大山史朗の「山谷崖っぷち日記」にこんな一節がある。
(この本、山谷の日雇い労働者として暮らす大山さんという方の
エッセイ集なのですが、その透徹した視線と知性には尊敬の念を
覚えずにはおれません。超お薦めの本です。)
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無知でありながら、性格の力のみで己の陋劣さを焼き切ったという
ふうの人々には会ったことがない。山谷の住人中、人品ともに優れて
いると私に思われる人たちは、決して完全に知識と無縁な人々ではな
かった。知識と完全に無縁な人々は、多くの場合、その無知のゆえに
いや応もなく卑屈さと傲慢さを引き寄せていた。
(中略)
無知であることが恥と陋劣さにつながらないためには、どれほど例外
的、超人的な意志力を必要とするかに思いを致せば、私は、無知は恥
と陋劣さの母胎だ、と言い切ってしまいたい気持ちにかられる。
じゃ、自分のことや、哲学についてチマチマ考えている男が「いい男」
ってこと?となると、これは絶対違う!と断言できる。
「ある程度知的であること」は「必要条件」に過ぎず「十分条件」では
ないからだ。他にも必要条件なら沢山あげられそうだ。
例えば:
「可能な限り他者や社会に誠実であろうと努力していること」
「克己心と勇気を持っていること」
「心が広くて暖かいこと」
「感情のコントロールができること」
「ユーモアのセンスがあること」
「異性を人間と見なし、人間として接すること」
「見た目に不潔感、不快感がないこと」
「どこかに、小さな破綻や矛盾もあること」
等等等、、、
こうやってみると、この必要条件、別にオトコに限りませんね。
「いい人間の必要条件」に変更します(どうも、すみません)
でも「十分条件」となると、これは難しい。
僕には手に余る超難問であります。