風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

永遠の豊穣

日記帳に書いている通り、実父の危機的状況の下、いろいろなことを考えている。
昨夜は母と長い間電話で話をして、仮にまた誤嚥性肺炎を起こしてももう気管挿管
はしないで静かに看取ることを確認し合った。
今のこの時間は本人と家族に対して神様がくれたわずかな時間なのだろう、と思う。

いったいひとの人生って何なんだろう?と改めてずっと考えている
そんな時、momongさんの記事「人生のリソース」を読んで、目が覚める思いがした。

かつて住んでた場所、行った場所。

そこで見た風景、己の感官が感じたこと、思考したこと、体験、その人生
の財産(人生そのもの)とは、その対象を体験、記憶として得ることである
と同時に感じた自分をその場所に残してゆくこと、その場所に己の一部を
与えることでもあるのかもしれない。己は主体として対象世界を記憶の中
に収めた、財産とした、一方的に得た、というつもりでいながら。

主体と客体の呼応現象としての体験は、一方的な収奪の関係にあるのではない。

本当にそうなのだ。
ひとと世界は一方的な収奪の関係にあるのではない。
ひとが世界から色々なものを受け取ってその内部を豊かにしてゆくのと同時に、
そのひとの豊穣は世界に向けて発散され、世界がそれを受け取って豊穣になって
ゆくのだ。僕は「ひとが世界から受け取ること」ばかりに目をやっていて、世界
に対してひとが分け与えるという視点が欠けていた。

ひとは生きることで、自らのフラグメントを世界に撒き散らす。
そのフラグメントを受け取ったひとは、世界は、それらを取り込みさらに豊穣に
なってゆく。僕の父も目に見えない多くのフラグメントを、僕や、家族や、社会
や、世界に撒いてきたはずなのだ。
星が、その一生の最後を飾る新星爆発で諸元素を撒き散らし、宇宙に豊穣さと
複雑さをもたらし、その結果として生命を生み出したように。

そのひとが確かに生き存在したという生命の実体はそのすべてがその人が生き存在した場所に分配され、その豊穣な懐かしさの中に還ってゆく。一生をかけて分散し刻印した己の魂の場所へ。永遠にめぐる生命の力の連鎖にくみこまれ、世界に刻印され、世界そのものとして完成する。分断された魂がすべて合一す る、懐かしさの完成形へ還ってゆく。

世界と合一してゆくプロセスとしての一生、という構図である。

未来へのリソースに満ちたゼロから始まり、永遠の豊穣で終わる。

***

生まれ、成長し、老いて死ぬ、という現象の意味、人間がDNAの乗り物としてではなく個としてどのように意味づけられるかの試論である。

momongさんの素晴らしい記事には感謝しかない。