風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

何もかも一新する

何もかもを一新しようと試みている。
PCの壁紙、スクリーンセーバー、ミネラルウォーターの銘柄、iPhoneの壁紙
から机に飾る絵、椅子の高さからコロンをつけるかどうかなどの生活の細々と
した習慣などなど。

昔は、ひとは人生に仕組みとして組み込まれたイニシエーションや、名前を
変えること(改名が頻繁に行われていた)で別人に生まれ変わることが出来
たが、現代はそれが希薄になっている。僕の場合、この数年の変化に応じた
Reincarnation(生まれ変わり、というか魂の再生)がなされていない気が
していて、それを少しでも行おうという試みの一端だ。

そこで根本的な疑問に突き当たる。
なぜ、僕に「生まれ変わり」が必要なのか?
自分の潜在意識的本能が強く欲しているからではあるのだが、それは、僕自身
が今の自分の「バージョン」が古い、と感じているからだと思う。
周囲の世界、環境や状況の大きな変化に対して、僕の現在のバージョンは旧弊な
視点、固着化した観点、古びてひび割れた価値観でしか判断ができていない、と
感じている。

ここのところメンテナンスの目的もあって、このブログを読み返していたのだが、
僕の精神はここのところ相当停滞している。それは、周囲の環境にうまく同化し
フィットしていない、という意味ではない。むしろその逆で過度に環境に適応して
いるように見える。
理由は明らかで、仕事の重圧と読書量の不足である。
読書は精神のインプットなので、インプットとそれに基づく思考がないままに
アウトプットだけしていたら、人間の精神は枯渇し旧式化し、魂はひび割れて
しまう。

それに微妙にかかわることを内田樹先生がブログで述べている。
白川静が「孔子伝」で述べた「思想は富貴の身分から生まれるものではない」と
いうセンテンスを引いて、内田先生はこのように説明している。

思想は富貴の身分から生まれるものではないというのは白川静が実存を
賭けて書いた一行である。「富貴の身分」というのはこの世の中の仕組み
にスマート適応して、しかるべき権力や財貨や威信や人望を得て、今ある
ままの世界の中で愉快に暮らしていける「才能」のことである。

「富貴の人」はこの世界の仕組みについて根源的な考察をする必要を
感じない(健康な人間が自分の循環器系や内分泌系の仕組みに興味を持た
ないのと同じである)。「人間いかに生きるべきか」というような問いを
自分に向けることもない(彼ら自身がすでに成功者であるのに、どこに自己
陶冶のロールモデルを探す必要があるだろう)。

富貴の人は根源的になることがない。
そのやり方を知らないし、その必要もない。
そういう人間から思想が生まれることはないと白川静は言ったのである。

僕は、たまたま現実の風の吹き回しによって、ここ数年は相対的に『富貴の人』
(そんな大げさなものではないが。。)の立場になってしまったのだ、と思う。
内田先生は「富貴の人は自己陶冶の必要がないから根源的にならず、よって
そういう人間からは思想が生まれない」と言う。
(もっともこの論は若干怪しいように思う。思想を産んだひとたちが皆「窮乏
の人」だったかどうか定かではないし、それよりも社会において生きにくさを感じ
ていた人の中で、その「生きにくさ」を彼個人の問題ではなく、人間普遍の問題と
考えた人たちが思想家になったと言うべきではないか?。但し「富貴の立場」に
立つと「生きにくさ」が減り、結果的に思考が停滞することは大いに有り得る)
この論の当否は置いても、自分の思考の発展が止まっていることは確かだし、
より強者の論理的、保守的、『往相還相』で言えば往相的になっていることは
否めない。

ずっと昔の記事に書いた通り、僕の人生の目的は「マシな人間になること」だ。
このまま停滞していたら、死んでも死にきれない、と思う。