風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

村上春樹「女のいない男たち」(2)「イエスタデイ」

前回の続きで「女のいない男たち」の感想を書いてゆく。
今日は第二話「イエスタデイ」だが、この話が僕には一番軽く読めた。
関東生まれで関東育ちにも関わらず完璧な関西弁を話す「木樽」とその美しい
ガールフレンドである「えりか」と「僕」の20歳の時の物語。
木樽はお幼馴染でもある「えりか」と恋人としての性的関係にうまく入って
ゆけず「えりか」は同好会の先輩と「私の中にもっと違う何かを見つけて
みたい」という「好奇心というか、探究心というか、可能性というか」から
関係を持ち、それを直感した「木樽」が離れていったことが16年後に
「えりか」によって、偶然再会した「僕」に語られる。
「木樽」と「えりか」は幼馴染で、いわば一心同体と言って良いような関係
だったのに、この出来事で二人は16年経ってもわずかな連絡の行き来は
あっても、もとには戻れず、二人共独身生活を続けている。

この物語で印象に残ったのは女性の心の「不可知性」だろうか。
「えりか」はその「好奇心というか、探究心というか、可能性というか」は
「とても自然なもので、抑えようとしてもうまく抑えきれないもの」だと
語る。「好奇心というか、探究心というか、可能性というか」という下りは、
えりかが無理に言語化するために言っているだけで意味がないと僕は思うが、
「抑えようとしてもうまく抑えきれない」というのはその通りだろうと思う。
ちょうどロトの妻がどうしても我慢できずにソドムの街を振り返って見て
しまい、塩の柱にされた時のように。
あるいは、プシュケがどうしても我慢できずその夫(エロス)の寝姿を
見てしまったことで、永遠に夫に去られてしまった時のように。

このような女性の「抑えようとしてもうまく抑えきれない」エネルギーに
よって、前回書いた「ドライブ・マイ・カー」の家福の妻は4人の男と関係
を持ち、「イエスタデイ」のえりかは先輩と関係を持ち、女を失った男は
心に傷を追い、その不可知性に苦しむことになる。
この「抑えようとしてもうまく抑えきれない何か」は恐らく決定的に男の
そういうもの(例えば性欲とか)とは異なった、もっと予測不可能で、
もっと突発的で、もっと非論理的で即興的かつ非合理的なものだろうと
僕は想像する。

面白いのは、女性の場合、その「抑えようとしてもうまく抑えきれない」
エネルギーに対する罪悪感を持つ人がほとんどいないことだ。
女性は自分の本能に忠実であることに対して躊躇しない存在なのに、
男の方はある種の憧れというか、理想として「そんなことはあるまい」
と一方的かつ幻想的に思っている所がある、笑。
だから、自分の心にややこしい縛りをやたらとかけるいわゆる「インテリ
の男」には、その不可知性が際立って見えるのかもしれない。

女のいない男たち

女のいない男たち