風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

memento mori

今日の夕刻、大学病院眼科での検査手術へ。
顔全体を覆うカバーを掛けられて、洗浄液で目を洗い、麻酔薬を瞼の裏表
にうたれる。先に麻酔入り目薬をうたれていても瞼周りは敏感なのだろう。
注射針が痛い。
麻酔が効いたころ医師がメスで瞼裏を切って患部を切り開き組織を取る。
麻酔をしていてもメスで切られている音はするし、感覚もあるから手には
脂汗が滲む。

術後、医師と話す。
悪性のものか良性のものか、病理検査の結果を見ないとどちらとも言えない。
悪性のものらしい兆候もあるが、まだ断定もできない、とのこと。
結果は月末近くに判る。
奇しくも僕の誕生日だ。
悪性のものとなると結構やっかいなことになる。
転移していないかの検査も先端機器を使って大規模に行う必要があるし、
摘出手術も大変だ。

医師のそういった説明を聞きながら、僕は落ち着いていた。
確かにその可能性は十分あるだろう、と思う。
もしそうならば「この悪運」は誰かの上に落ちるべきものだったし、それが
たまたま僕の上だった、というだけだ。
ちょうど、戦場で『たまたま』誰かの上に砲弾が落ちてくるように。
「この悪運」が僕の愛する家族や、僕の愛する人達の上に落ちてこなくて、
自分に落ちたのなら、それは本当に良かった、と心から思う。

もし、悪性のものでリンパ節に転移していたら、年齢からいって僕はそれほど
長くは生きられないだろう。それは悲観とか、落ち込んだが故の思いこみとか
そういう感情に由来するものではなくて、合理的に考えればその蓋然性が高い
だろう、ということである。
もちろん、もしそうであっても僕は戦う。
自分の為ではなくて、僕を愛してくれているごく少数の人達のために戦って、
少しでも長く立派に生きようと思う。
そんなことをいろいろ考えていくと、改めて家内に本当に申し訳ない、と思う。
余計なお金も使わせるし、余計な心配もかける。父母にも息子達にも申し訳ない。
でも、どのようになっても、僕は彼らのために立派に生きてみせるぞとも思う。

memento mori(死を思え)
大げさと思われるかもしれないが、僕は今、ごく静かにそれを思っている。
もちろん結果待ちではあるけれども、最悪に備えて準備と覚悟はしておく。