風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

火山のふもとで

ネットなどで評判が高い新人作家・松家仁之氏の小説「火山のふもとで」を読了した。
美しく格調高い文章、静謐さと上品さを醸し出す文体、穏やかに、そしてなめらかに
流れてゆく物語。
実に素晴らしい小説だった。
日記帳でも引用したアマゾンの紹介文を下記する。

「夏の家」では、先生がいちばんの早起きだった。
―物語は、1982年、およそ10年ぶりに噴火した浅間山のふもとの山荘で始まる。
「ぼく」が入所した村井設計事務所は、夏になると、軽井沢の別荘地に事務所機能
を移転するのが慣わしだった。所長は、大戦前のアメリカでフランク・ロイド・
ライトに師事し、時代に左右されない質実でうつくしい建物を生みだしてきた寡黙な
老建築家。秋に控えた「国立現代図書館」設計コンペに向けて、所員たちの仕事は
佳境を迎え、その一方、先生の姪と「ぼく」とのひそやかな恋が、ただいちどの夏に
刻まれてゆく―。
小説を読むよろこびがひとつひとつのディテールに満ちあふれた、類まれな
デビュー長篇。

読後の感想としてネットで散見された「村上春樹の登場人物たちに似ている」という声は
もっともだと思う。建築設計事務所の新入所員である「僕」は控えめで、静かで、中性的。
野鳥の鳴き声を聞き分けることができる繊細で品の良い青年という印象だが、さらに
印象的なのが、料理に一家言持っている先輩所員の「内田さん」だ。
彼の仕事ぶりからも生活の様子からも繊細さと丁寧さが伝わってくる。
僕は「内田さん」の描写を読んで、村上春樹の「海辺のカフカ」に出てくる図書館司書の
「大島さん」を連想した。

彼らだけではない。
先生や他の所員達、そして(所長の恋人?と言われている)藤沢さんも、皆、上品で、
質の良い品(車、文房具、持ち物や食べ物)や音楽(シューベルトハイドンやバッハ、
それもintimateな音楽ばかり)に静かな愛着を持っている。
そして彼らが滞在する軽井沢の「夏の家」を取り巻く美しい自然。
そう、この小説には「趣味が悪いもの」や「品がないもの」が一切、出てこないのだ。

ここには著者自らの心の中のヒエラルキーも映し出されている。
「僕」はゼネコンの設計部を嫌って少人数のアトリエ設計事務所に就職するし、
「先生」の作品は、ライバルである船山圭一(丹下健三と目される)の「迫りあがり、
屹立するようなモニュメント的印象を持つ建築」ではなく、もっと親密で暖かく、
威圧感のない建築である、というふうに。

小説の中の僕が語る先生(村井俊輔:吉村順三と目される)の建築は:

先生の建築のなかに入ると、誰も大きな声は出さないですね。
ほっとするような手ざわりか、やわらかく入る光の具合や、いつも
使っている人がしばらくしてようやく気づくぐらいの仕掛けは、
ぼそぼそと小声で話しかけてくるみたいなものだから、人の声も
それに合わせて小さくなる。
飛鳥山のディティールなんて、何から何までつぶやきみたいなもの
かもしれない。

これが筆者自身の趣味(好み)でなくて何だろうか?
そして「先生」は建築について次のように「僕」に語る。

家具はもっとあとになってからという井口くんの考えもわかるんだが、
建築というのは、トータルの計画が大事で細部はあとでいい、という
ものではけっしてないんだよ。
(中略)
細部と全体は同時に成り立ってゆくものなんだ。

まさにこの小説についても同じ事が言える。
意匠を凝らしたディディールによって、この美しい小説は成立している。
この小説の「基本設計」の過程で「醜いもの」「品のないもの」「趣味の悪いもの」
「露骨なもの」は注意深く消しゴムで消され、設計図から排除されている。
本当に美しく優美かつ繊細で静謐な箱庭のような小説。

たったひとつ、僕に懸念があるとすれば、作者の次の作品がどんなだろう、ということだ。
この手法でこの高みに上りつめてしまうと、次の作品では同じ手法はもう取れないはずだ。
カズオ・イシグロは「日の名残り」である高みを極めた後、異なった切り口で「わたしを離さないで」を書き、世界に再び衝撃を与えた。
松家仁之氏はどうだろうか?

# 「先生」と「藤沢さん」について描かれた淡い関係は印象的だった。
  「アフリカの日々」のディネーセンとハットンの間柄を想起させた。

火山のふもとで

火山のふもとで