風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

「海辺のカフカ」を読んで

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

シカゴ出張の間、村上春樹の「海辺のカフカ」をずっと読み続けていた。
読み終わるのが惜しく、少しずつ少しずつ読んだ。
読了したのは帰りの飛行機の中だった。


読み終わって思ったのは、やっぱり僕は、村上春樹の小説が好きだ、ということだ。
彼の小説は、いつも僕に謎や問いかけをくれる。
そして、解答はくれない。
僕は果てしなく考え込むことになる。


村上作品の中心的な主題に暴力、性、死がある。
そのどれも人生の中心的な課題なのだけれど、暴力について村上作品は特に先鋭的な
問題意識を向けている。
たとえば、海辺のカフカの中で、一番暴力的なシーンは、生きたまま猫をナイフで
裂いて心臓を取り出すシーンだ。僕はこのシーンはあまりのむごさにしばらく読む
ことが出来なかった。
生きたまま裂かれて内臓を取り出される猫の凄まじい苦痛、苦痛、苦痛…
それを見ることを強要されたナカタさんが目を閉じると、猫裂き人のジョニー・
ウォーカー氏はこう言う。
「目を閉じても、ものごとはちっとも良くならない。目を閉じて何かが消える
わけじゃないんだ。それどころか、次に目を開けた時にはものごとはもっと
悪くなっている。私たちはそういう世界に住んでいるんだよ。」と。
そういえば「ねじまき鳥クロニクル」でも、生きたまま皮を剥がれる軍人の
拷問シーンがあった。


村上春樹は、何故執拗に、このようなむごたらしい不条理な暴力描写をするのか。
それは、現実の世界のどこかで形は違っても、実際に行われていることだからだ。
そして、人間の本性と切り離せない物事で、僕たちの中にも内在するものである
からだ。だからこそ「目を閉じてはいけない」のである。
そしてもう一つ。
「不条理な暴力」はある日突然降りてくる。
戦争という形なのか、事故という形なのか、何なのかはわからないけれども。
人生の中で偏在するにもかかわらず、まるで無いことになっているようなもの。
それが「不条理な暴力」だ。


村上作品は、日常の人生の中で「特異なケースにつき除外」として「語られていな
いもの」「無かったことにされているもの」をいつも執拗に追っている。
人間の異常な醜さ、恐るべき愚かさ、考えられない不条理を含んだものが人生である
だろうに、多くの人々は、例外として「なかったこと」にする。
これらを繰り入れられない「人生の一般理論」など意味がないにもかかわらず。
僕自身は、そういう表面的な「一般理論」など興味はない。
村上春樹だってそうなのだろうと思う。


余談になるが、この作品の中では、僕にとって親しみのある多くの対象が登場した。
フランツ・カフカの作品「流刑地にて」、アドルフ・アイヒマンシューベルト
ピアノソナタなどなど。
そういえば、僕はずっと昔、ノモンハン事件について興味を持って随分集中的に
調べたことがある。村上春樹が「ねじまき鳥」でノモンハン事件を取り上げている
ことを知って驚き、さらに、本人が実際にノモンハンまで行ったことを知って、
さらに驚いたものだった。
彼の関心領域は、僕の関心領域と大きく被っている。
それもまた、僕が村上作品に惹きつけられる要因なのかもしれない。