風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

ひとは一生にひとつのことしか出来ないものだ

2011年が終わり2012年が明けた正月早々、オウム真理教の平田容疑者が自首したという
ニュースを読むことになった。実に17年の逃亡生活の末の出頭だった由。
17年間、身を隠し逃げ続けるのはどんな心持ちの日々だったのだろうか。


しかしながら、平田容疑者の人生を考えるに、ひとことで言うと彼の人生は「オウム
に入信し、容疑を掛けられる事柄を成し(あるは成さず)、17年間逃亡し出頭した」
ということに尽きる。これから裁判が行われるわけだがその結果がどうであれ、彼の
人生はほぼこの関係で語り尽くされることになるだろう。
いや、本人にしかわからないいろいろな事があるに違いないし、それも彼の人生で
あって「ひとことで語るなど傲慢である」というご意見もあろう。
しかし敢えて僕は、ひと一人の人生など、一つのことを成す(あるいは成さない)で
語り尽くされるものだ、という見解を取る。


働いている人の場合、仕事がその核になる人は多いだろう。
病気に苦しむ人の場合、闘病がその核になるのだろう。
障がいに苦しむ人の場合、その克服が核となるのだろう。
健康で仕事にも就いておらず特別な病気や障がいも持たない人の場合は、家族で
あったり、自分の生き甲斐とする事柄がその核となるのかもしれない。


そうなると、僕の場合はその「一つ」とは何なのだろう、と改めて考える。
改めて考えると、僕の場合でもそれは多分「仕事」であって、それも「何ひとつ成して
いない仕事」なのかもしれない。
しかし仕事で「何かを成す」とはどういうことか?
予想を遙かに超える売上を上げることか?
会社を大発展に導くことか?
そして報酬として大金を貰うこと?
全部、しっくり来ない。


上に挙げたような「実質的な何かを得る」=「成る」と考えてみると、仕事にしても
他の何かであっても「何ひとつ成さずに終わる人生」というのはいくらでもある。
僕のもう亡くなった友人の口癖は「ガンになっただけの人生だった」というものだった。
しかし、彼はそのガンとの闘病において、その闘う姿において、僕たちに忘れ得ぬ何か
を残していった。その意味で彼は「何かを成した」のである。


ここまで書いてきて改めて気づく。
重要なのは「何かを成すかどうか」ではない。
「何か善きことを成そうと本気で精一杯、前に向かって歩いたかどうか」なのだ。
それはヴィクトール・フランクルが「態度価値」と呼んだまさにそのものだ。


平田容疑者にしても、ここまでの人生では彼は「何も成していない」と言って良い。
しかし、これからの裁判において、どういう態度、どういうスタンスで臨むかで
「何かを成せる」かどうかが決まるのであろう。
そしてこれは僕も同じである。
これから仕事や他の事柄に対して「どう向き合うか」で僕が何かを成せるかどうか
は決まるのである。それも「態度価値に意味があるからそうする」のでは駄目で、
「本当に物事を成そうとすることから、自然に滲み出る態度価値」でなければ
駄目だと思うのだ。


年のはじめに抱負に代えてこの気づきを綴っておく。